いけないこと

銀の踵の黒い靴の思いっきり続きなのでそちらをお先にお願いします。

 

唇と唇が離れた時、彼は、ひどく怯えた顔をしていた。

以前のカスピエルは、アジトに泊まる時は決まってソロモンの部屋からほど近い部屋を選んでいた。
それが最近は、奥まった廊下の突き当たりの、誰も来ないような部屋ばかり選んでいる。
戦闘に召喚されても、案件が片付けば「あー、待ち合わせがあってなあ」とそそくさと帰ってしまう。
避けられているのは明確で、それを追っていいものかとソロモンはしばらくの間悩んでいた。だが、あの揺れる金と朱の瞳を思えば、このまま有耶無耶にすることはできない。時が過ぎるままにしておけない。
ベッドを降りて、靴を履く。今日は飲むとメフィストが言っていたから、きっとアジトに来ているかもしれない。

浴びるように酒を飲んでも、自分がとんでもないことをしてしまった、という焦燥感は消えなかった。
女となら数えきれないくらいしている、生ぬるいほどのかするようなキスをずっと引きずっている。まるで初めて他人に触れた童貞のようなのに、もはや未知への期待や希望はなく、既に道筋を知ってしまっているからこそ、苦しいほどの渇望が神経を蝕む。
心がそれを許さなかった。あんなに素晴らしく、自分を照らしてくれるひとに、どうして身勝手な欲望を向けられる。皆の王として、前を向いて進むひとを、どうして縛りつけることができる。救われて、仲間として愛されて、満たされているはずなのに何故求めることをやめられないのか。
いつもの面子と酒を飲んでいる間は、まだマシだった。馬鹿話に、賭博に笑うことが出来た。それでも一人暗い廊下を歩いていると、また自分を締めつけているような感覚が戻ってくるのだった。

「カスピエル」

廊下の奥で、チカ、と何かが月明かりに光った。突き当たりの窓から入る光は、指輪を、高い踵を、そして求めてやまないその人を浮き上がらせていく。
「ソロモン!?なんでこんな夜に⋯⋯」
「もう寝るところだったかな。ごめん、どうしても話したくてさ」
ソロモンは、あの高い踵の靴を履いて壁によりかかっていた。ソロモンの部屋からこの部屋は少し離れている。その道程がかけた負荷か、膝がガクガクと震えていて、今にも倒れ込みそうだ。
「とりあえず中入って、座ってくれや⋯⋯」
この状況でピシャリと扉を閉めてしまうことなどできない。カスピエルは観念してソロモンの手を取った。

「きつく縛りすぎや。うっ血しとるやないか」
「途中で一回脱げて転けちゃってさ⋯⋯結び直した時きつくしすぎたかも」
「転けたあ!?ケガ、ケガないか!?」
「そんな大したことないよ」
ベッドに座らせたソロモンの足に絡みつくリボンを解いていく。前にこの部屋を使ったメギドが壊したのか、椅子と机はバラバラになっていた。
うっすらと、残るリボンの跡をなぞる。
「こんなけったいな靴⋯⋯捨ててくれてよかったんやで」
「あげたものを使ったり身につけたりしてもらえると、俺も嬉しいからさ」
ソロモンが仲間のためを思って贈る物たちと、ただただカスピエルの欲のために作られたこの靴では、何もかもが違う。比べることすらおこがましい。カスピエルはそう思いながら靴を脱がせると、剥き出しになった右足の甲に、流れるように口付けた。ソロモンが驚き、かすかに声を上げる。
ああ、まただ。このままでは、またソロモンから奪ってしまう。カスピエルはなるべくソロモンの顔を見ないように、距離を取ろうとした。
「カスピエル」
その時、ソロモンの手が、いつもカスピエルや他のやつらに色々なものを作り、渡してくれ、導いてくれる手が、カスピエルの両頬を包んだ。
夕焼けの端、夜の際の色をして、いつも自分を繋ぎ止める瞳に捕えられる。
「お前、俺に何か言えてない⋯⋯言いたいのに言えてないことがあるんじゃないか」
「そん、そんなこと、ないで」
冗談、冗談やと逃れようにもいつもは回りすぎる口からは、「あ」だの「う」だのと意味の無い言葉が漏れるだけだった。
「何か不安に思っていることがあるなら言ってほしいんだ。カスピエルのこと、放っておけないよ」
「ソロモン、俺、俺は」
かあ、と紅潮していく顔が熱い。
「俺は、」
お前が欲しい。そんなことを【俺たちのソロモン王】に言ってはいけない。靴やキスや身体で、彼を縛り付けるなんて、絶対に、絶対にしてはいけない。
ソロモンの指があんまりに優しく頬を撫でるから、また甘えてしまいそうになる。
「本当に⋯⋯なんでも⋯⋯ないから」
「⋯⋯だからお前のこと、ほっとけないんだよなぁ」
ふ、と柔らかく微笑んで、カスピエルの頭を撫でる。まるで親が子にするように。とは言ってもカスピエルはそんな扱いを受けたことがなかった。
「大丈夫だよ。怖いことなんてない」
やめてくれ。どうかやめてくれ。そうして清廉に何かを与えられる度、自分を殺したくなる。
「⋯⋯ゆるしてくれ、ソロモン⋯⋯」
いつしか弱音が、涙と一緒にこぼれ落ちていた。
「ゆるされないのが、怖いのか?」
ソロモンはしばし考え込むと、カスピエルを立ち上がらせ、屈ませて抱きしめた。
「お前はきっと色々な人を傷つけてきたのかもしれない。それは知ってるよ。その人たちがゆるしてくれるかどうかなんて、俺には語ることすらできない」
背中をポンポンと優しくさする。左手はまだカスピエルの頭をよしよしと撫でるままだ。
「でも少なくとも俺は、カスピエルが俺に何をしても最後にはゆるそうと思う。カスピエルが自分自身をゆるせなくても。代わりにゆるす⋯⋯って言うのは、さすがに傲慢かな⋯⋯わっ」
体重がかかってきて、倒れ込むようにベッドへ押し倒される。食らいつくように唇が重ねられて、酸素が奪われていく。
「っは、これでも?」
「あ、⋯⋯ん、」
一瞬口を離して問いかけたのはあくまで息継ぎのためだったのか、すぐにまた噛みつかれて、舌がねじ込まれる。それでもだ、と答えるようにソロモンは力なくベッドに投げ出されていた腕を、カスピエルの背に回した。まだ舌は追いつけない。
(俺がいいって言ったんだ)
あの日のキスも、このキスも。そしてきっとこの先にあることも。
一番など、特別など決めてはいけないのだろう。
それでも。カスピエルと歩いていきたいと願ってしまった。