ツイステッドワンダーランド/トレイ・クローバー×リドル・ローズハート
2022年3月5日のトレリドワンライ参加作品です。 お借りしたお題:『飛行』『幸福』
お母様がボクに飛行術を教えてくれる時、必ず魔法でできた実態のない鎖で箒を繋いでいた。飛行術は簡単に言ってしまうと箒を飛ばす魔法と、それに合わせて身体を制御する魔法から成り立っているのだが、身体を制御する魔法を上から重ねがけしてボクの身体に魔法で触れてもいた。ボクはそれを、例えば子供が自転車の練習をする時に親が荷台を支えてやるようなものかと思っていた。指導と、安全のためだと。自転車に乗ったことなんかないのに。
「おかあさま、どうして箒なのですか。車や自転車ではだめなのですか」
その頃、ボクは町の子供たちが乗っている自転車が羨ましかったのだと思う。その時はもう何かを望むのは無駄だと思っていたから、『自転車が欲しい』などと言えるはずもなく、それは限りなく遠回しな言及だった。
案の定、お母様は予定を少し変更して、飛行術の歴史について教えてくださっただけだった。
「いい質問ね、リドル。魔法はイマジネーションだけれど、重力に縛られた人間にとって、『空を飛ぶ』というイマジネーションは実はとても難しいものなのよ。箒なしで簡単に空を飛べるのは、鳥など空を飛ぶ生き物を祖に持つ人や妖精族だけだわ。けれど、『箒で空を飛ぶ』という共通のイマジネーションの蓄積によって、私たちはいくらか楽に空を飛ぶことができるわ。だから、理論上では身一つや、あなたが言ったようなものを使って空を飛ぶことも可能だけれど、空を飛ぶという結果に対して、要する訓練や時間が釣り合わないのよ。わかったかしら?」
「……ハイ、おかあさま」
お母様が庭のベンチから見守るなか、ボクはただ言われた動きを何度も繰り返した。そのベンチには、トレイやチェーニャが座っていたこともあった。
会いに行きたいな、と思わないはずがなかった。押さえ込もうとした欲が、箒の動きに反映されてしまう。けれどお母様はそれに気がつかないようだった。
「あまり高く飛びすぎないで。それに速すぎるわ。お母様の病院には、箒で怪我をした人が月に3人は運ばれてくるのよ。首の骨を折ったら死んでしまうわ」
「ハイ、おかあさま」
お母様は、何のために空を飛ぶのか教えてくれたことはなかった。魔法執行官や箒便など、生業としてそれを使う人たちがいることは社会勉強の一貫として教えてくれたが、リドルは魔法医術士になるのだから関係ないわね、と言うだけだった。庭先で行われる飛行術の授業は、ただただ魔法の制御を学ぶためのもので、リドルが平均的な魔法素養を持つ子供より優れているためだけに行われるものでしかなかった。
長じて、目的もなくただ『できるようになること』や『知らないことを知ること』を喜べる性格に育ったことを否定したり恨んだりするつもりはない。けれど、お母様が教えてくださった飛行術は、このためだったのだと今、確信している。
縮小魔法でマッチ棒ほどの大きさにしていた箒を元の大きさに戻す。ロイヤルソードアカデミーの創設者は、家財全てをこうして縮めて引っ越しをしたというが、ボクはこの子供部屋のもの全てを持っていくつもりはなかった。魔力の節約のためでもあり、物音を立てて階下のお母様に気取られるのを避けるためでもあった。選びに選び抜いた数冊の本だけをマジカルペンで小突いて、学園から帰省する時に使っていた旅行鞄に追いたてる。パタパタと、鞄の口を通る頃にはトランプほどの大きさになっていった。その上から最低限の衣服と、若干の日用品と、貴重品を詰める。そして出来上がった荷物を、箒にくくりつけた。
部屋のドアと窓には鍵がかかっている。『一晩頭を冷やしなさい』とお母様は言ったが、ボクは話し合いを持ちかけた時からずっと冷静だった。でなければ予め縮めた箒を忍ばせたりしていない。
音を立てるのは、この一度だけだ。ボクは椅子を窓に叩きつけて、ガラスを割った。何度も、何度も振りかぶって、窓枠だけにしてしまう。箒に跨がって床を蹴った時、階段を駆け上がる音がした。
「リドル!?」
「さようなら、お母様」
夜空を切り裂いて、箒を飛ばす。
「待ちなさい、リドル! 待ってちょうだい!」
お母様はすぐに追って来た。お母様が飛ぶのを見るのは、子供の頃以来だった。ボクは前を向いて、ひたすらにスピードと高度を上げていく。旋回や急降下を織りまぜると、徐々にお母様は着いてこられなくなっていく。
「高すぎる! 危ないわ! お願いだから——戻って——」
背後から追ってくる声が少しずつ小さくなっていく。心配をかけているな、と思いながらも、もう振り返ることはできなかった。思い描く幸福の形は違っていても、確かにあの人はボクの母親だったのに。
魔力と体力の限りに箒を飛ばして、都市と都市との間の何もないようなところに降下していく。道路脇にぽつんとサービスエリアがあって、併設されたダイナーの看板の光がバチバチと明滅している。その下にトレイが立っているのを見て、安堵から着地に失敗してしまった。
「——リドル! 大丈夫か?」
「キミこそ、中で待っていてって言ったのに」
「悪い。心配だったんだ」
ダイナーに入店して、この先の計画を再確認する。その前にと、トレイが抱き締めてキスをしてくれた。
これから“薔薇の萼”と称される空港がある街へ向かって、そこから黎明の国へ向かう。そして二人、新生活を始めるのだ。お互い、多くのものを失った。両親との断絶は決定的なものになったし、トレイにも実家を捨てさせてしまった。数年間地元で働いて得たキャリアも。それでも、ここへ飛んでくることができて、よかったと首に腕を回してキスを返しながら思う。
子供の頃のボクは何のために飛ぶのかを知らなかった。飛ぶ理由だけではない。勉強をする理由もルールを守る理由も、培った優秀さを示す理由も知らなかった。それは、ボク自身の幸福を考えたことがなかったからだ。
「トレイ。ボクは今、幸せだよ」
「おいおい、まだまだこれからじゃないか」
少し休んでブロットを落として、“薔薇の萼”へはまた箒で向かう。今度はそんなに速度を出さなくてもいい。ただ二人、重力から解き放たれて並走していくだけだ。