ツイステッドワンダーランド/トレイ・クローバー×リドル・ローズハート
※子育てをしているトレリドです。捏造された子供に名前と人格があり、喋ります。 ※直接的な描写はありませんが、男性も妊娠・出産が可能な世界です。 ※これらと同一時空になります。 自分たちと全然タイプの違う子供たちを育てている数十年後のトレリドです。今回は真ん中の子のお話です。
階段を上がって、二階廊下の突き当たり。かつて客間だったその部屋は、今は子供部屋になっている。白を基調に、シックな調度品や日用品がきちんと整頓されている空間は一見して子供部屋らしくはない。歯ブラシの色やマグカップの色など、家族の中で何となく『これはあの子の色』という色が固定されていくのはよくある現象だが、今この部屋の主に割り当てられているそれは、白だった。上の子がランドセルや衣服で黒を好んだのとは対照的に、彼はアイボリーやミルク色など白系統のものを選ぶ傾向にあった。事実、学習机の脇には白いランドセルが、汚れや傷一つなく吊り下げられている。5年間以上も背負われてきたにも関わらず。
その部屋の中で、かつてよく泊まっていた人物が持ち込んだオレンジ色のクッションだけが異彩を放っている。にやけたような、呆れたようなとぼけた表情で、部屋の主の腕のなかでギュウと形を変えていた。
「…………はあ……」
少年はヘッドホンに手を添えて、ベッドに横たわる背中をいっそう丸める。一人きりの自室の中で安心を取り戻そうとするも、消えない不安感から己を守るように。ベッドサイドに置かれた薄い直方体のCDラジカセの中で、黒い円盤がぐるぐると回っていた。まるで出口のない思考のように。
「……頑張らないと、いけないのに……」
部屋の扉は、何度もノックされている。けれどもヘッドホンの中で鳴り響いている攻撃的な音楽が、彼の耳にノックが届くのを阻んでいた。しびれをきらして勢いよくドアが開かれる。少年は飛び上がるように身を起こした。
「ロラン、大丈夫かい? 具合でも悪いの?」
「っ! お、お父様! ごめんなさい、気がつかなくて……何か用?」
「チャーリーにCDを送るよう頼まれてね……。“バッドガールズカヴン”? のインディーズ時代のアルバムが未配信だから送ってほしいとか——ボクにはよくわからないから全て送ってしまうことにしたのだけれど……棚に隙間があって。エディスは知らないというし……あの子、自分で持っていって失くしたんじゃないだろうね……」
「あ、それならここにあるよ。丁度聴いてたんだ」
「……キミが? 珍しいな」
いつも好んで聴いているジャンルとは違うだろう? とは言わなかった。彼が普段好んで聴いているのは、もっと柔らかくさわやかでストレートな愛と情熱を歌うアイドルポップだ。ポスターの一枚も貼らないが、何組かのポップスターのために雑誌や配信音楽を買っていることは、把握している。把握していることをわざわざ言ったりはしないだけで。
「……お姉ちゃん、勝手に借りて怒るかな?」
「いや、エディスだって前からしょっちゅう勝手に拝借してるんだ。きっと怒りやしないよ」
「……そう、だよね」
「ねえ、やっぱり調子が悪いんじゃない?」
「い、いや! なんでもないよ! 本当に……なんでもないんだ」
「……そう」
目を伏せた少年は、赤毛といい目の色といい部屋の戸口に立つ父親に生き写しだ。けれど別個の人間である以上、抱えている憂いは異なっている。下手に手を差し込むと干渉しすぎて彼にとって大切なものをたやすく壊してしまいそうで、父親としてのリドルは強くブレーキをかけた。親に境界を侵される痛みを思い出すほど、自分の子への対応は慎重になっていった。いつもトレイ譲りの柔和な笑みをたたえているその顔は優しげで、それを見ているとリドルは胸の奥がじんわりと暖かくなる。顔の造形は自分の方に似ている、という客観的な事実を、言われるまで忘れてしまいそうになるほどだ。その顔を絶対に、歪ませたくないと思っていた。けれど時おり、その笑顔が、何か仮面か壁のように親子の間を隔てているような感覚に陥るのだった。
「……最近学校はどう?」
「……ええと、普通だよ」
ロランは目線をわずかに逸らした。話題を移したようでいて、彼にとってはほとんど動いていないのだとリドルは悟る。
「友達とは仲良くやれてる? 以前ずいぶん泣いて帰ってきたことがあるよね?」
「それは——もうずっと前のことだよ。今はもう、その、普通だよ。どうしてそんなことばかり聞くの?」
ロランはほんのわずかに声を震わせる。その様子に明確なコミュニケーション失敗の手触りを感じてショックを受けながらも、今のリドルには「キミが大丈夫なら、いいんだ」と返すのがやっとだった。
***
『ロランくんは、本当に申し分のない優等生ですよ。成績優秀なのは勿論のこと、気性も穏やかで、トラブルを起こしたことが全くありません』
『全く……ですか?』
『その、お姉さんを見ていると戸惑われるかもしれませんが……全くです。非の打ち所のない優等生ですから、いたずらな子たちの中には反感を持つ子もいますが……波風を立てず、上手く接していますね。それ以外のお友だちからは慕われていて頼られることも多いですし、彼自信も頼られることが誇らしく、嬉しいように見えます』
『そう……なんですね』
『おうちでの様子はどうでしょうか? “優等生”をおやすみして、のびのびと過ごしていらっしゃいますか?』
『……。“いい子”なんです。妹の面倒もよく見ていますし……。共働きで遅くなることも多いのですが、6年生になってからは夕食を作ってくれる日もあります』
『そうですか……。それは……素晴らしいことですが、少し不安がありますね。今年度からは生徒代表を立派に務めていてくれていますが、もしどこかで無理をしているのなら、このまま続けさせるのは負担が大きいかもしれません』
「子供がいい子すぎる、なんて贅沢すぎる悩みかもしれないけどな……」
「でも心配だよ。丁度ボクも最近、あの子の様子がおかしいと感じたんだ」
ロランの担任との二者面談のためエレメンタリーまで足を運んだのはトレイだったが、録音魔法の許可を得てリドルもしっかりとその会話を聴いていた。子供たちが寝静まった夜は、夫々だけの秘密の時間だ。二人分のハーブティーと、トレイが休みの日に焼いたクッキーで一息つく。けれど今日は、二人とも親としての憂いに顔を曇らせていた。
「思えば幼い頃からずっと大人しくて他二人に比べれば手がかからない子で……」
「俺の側の親戚連中に、『お人形さんみたい』なんて言われてたこともあったな……」
「喜怒哀楽に乏しいわけではないのだけどね……。シャイで人見知りではあったけど、うちでは豊かな感情を見せてくれた、と思う」
例えば笑顔。上手く膨らまなかったけれど、初めてケーキを焼いたとき。それを家族と食べているとき。好きな小説を読んでいるとき。ケイトが弾くギターを聴いているとき。仲違いしていた友達と仲直りした、と話してくれたとき。
例えば泣き顔。姉に乱暴に可愛がられたとき。低学年の頃預けられていたアフタースクールでのお友だちと不和が生じたとき。玩具を……小さなブロックのほんの1ピースを失くしてしまったとき。(あの時は仕事帰りに子供部屋のベッドやチェストを魔法で浮かせて這いつくばって、大変だった!)
例えば怒り顔。ケイトがよく使っていた客間を彼の部屋に改装すると伝えたとき。『ケーくんが来なくなるんなら、自分の部屋なんかいらない』と早とちりして叫んでいた。
色々な表情を見せてくれる子だったはずなのに。
「でも、いつからだろう? 癇癪を起こしたことも、わがままを言ったことも、泣いたことも……最近はほとんど思い出せない……。今……ロランは本当にしたいように過ごせているんだろうか?」
問題は、生徒代表を続けられるかなどということではない。あの子の心が何かに圧されて歪められてはいないか、ということだけだ。
(リドルも随分変わったもんだ……)
トレイは目を細めて、一瞬だけ過去を見つめた。そしてすぐに現在のリドルと、抱えている問題に向き直る。あの子にも、少しばかりの変化が訪れるように。
「俺たちがあの子に甘えるばかりで、十分に甘えさせてやれなかったかもな……。あの子の方でも、甘え方がわからなくなってるんだろう」
「どうしたものか……何かアプローチを考えないとね。まず子供たちと過ごす時間を増やさなければ。今度二人で休みをとって……」
「そういえば、ロランが作りたがってたケーキがあるんだが」
「それはいい考えかもしれないね。そうだ、ケイトにも声をかけてみよう」
「あいつはケイトにべったりだったからな。都合がつくといいんだが」
レシピノートとスケジュール帳を広げて唸る。いきなり『無理してないか?』と切り込んでもきっと彼は『大丈夫だよ』と笑うのだろう。だから、彼が楽しんでいたことを一つ一つ思い出して探っていく。結局彼の胸の内が何一つわからなくても、せめて少し気晴らしになればいい。
善意と優しさと愛情によって、間違いながらもあれこれと考えてもがくことを二人は止められないのだった。
メレンゲを泡立てる音。オーブンの熱が余熱のためにじりじりと高まっていく音。家族でのお茶会にはつきもののその音は、久しく遠ざかっていたものだった。上の子が休日は部活や遊びに出てしまうようになって、下の子もマイペースに過ごすようになって、付き合ってくれるのは真ん中だけになって。そうなると最早ただトレイがお菓子を作るだけの日になって、お茶会と言うには簡略化されていた。
けれど今日は久しぶりに“お茶会”をしよう、とリドルが言ったので。洗い立ての真白いテーブルクロスを引いて、とりどりのお菓子を作るつもりで張り切っていた。
「パパ、クランブルの細かさはこれくらいでいい?」
「そうだな、あまり細かくしすぎても食感が出にくいからな」
ロランはてきぱきと副材料の準備や下ごしらえを済ませていく。その手際のよさに、トレイは息子の成長を感じ取った。何度も留守番を強いてきてしまっていたが、それが自分の時と同じように彼を成長させていると信じたかった。
「お前と一緒にお菓子作りを楽しめて、嬉しいよ」
「……うん、僕も、嬉しい」
トレイが何かから目を逸らしたその時、客人が呼び鈴を鳴らさず合鍵で現れた。
「やっほー、来たよ~!」
「ケ……ケイト、さん」
「久しぶり、ローリィ!」
ハグしようと両手を広げるケイトに、ロランは困り顔で微笑んで「今、手に粉がたくさんついてるから」と首を横に振った。
「ありゃ……もうすっかり落ち着いたお兄さんだね」
ロランはまた、にっこりと笑った。お人形、先日交わした思い出話の中の単語がトレイに過る。あの頃の、無表情な中にも豊かな感情を読み取れた顔とは違う。非の打ち所のない笑みで何かを覆い隠してしまっている。
「はい、どうぞ」
「えっ……ええ~!? 本当にもう、立派な紳士だね……」
「もう6年生だから。そうだ、僕、生徒代表になったんだよ」
ケイトが座るダイニングセットの椅子を、ロランは自然な所作で引く。ケイトに近況を、最近の頑張りを話す顔は、いくらか安らいで見えた。ケイトの話に耳を傾けている時も、楽しそうにスレートグレーの瞳を輝かせている。和やかで、楽しくて、幸せな。そんな午後のお茶会が始まってもずっと、けれどトレイの中には漠然と嫌な予感があった。隣に座るリドルに目配せをする。これが、リドルの案じていたことなのか。リドルは少し目を伏せる。それが肯定なのか、そもそも何が伝わっているのかはわからない。出会って三十年以上にもなる、心底愛し合ってずっと一緒にいる連れ合いでさえ、目線だけでは全てを確かめきれない。まして、血を分けたとしても別の人格を持ち、別の時代を生き、別の人間関係を持ち、別の興味関心を持つはずの子供だ。彼とはまだ十二年足らずしか一緒に暮らしてはいないのだ。わかるわけがないのかもしれない。けれどトレイは、心底彼に傷ついてほしくないと思っていた。
「おはよ~…………」
安穏なお茶会にそろりと差し込まれたその声もまた、おっとりとしたものだった。末っ子のエディスだった。ハリネズミのぬいぐるみを腕に抱き、まだほとんど寝ているような足取りでリビングに降りてきて、ソファに身を投げる。その目はまた閉じていて、すぐに寝息を立てはじめる。ハリネズミを丁度いい枕に、二度寝が始まってしまった。
「イーディ! 起きて! もうお昼過ぎだよ!」ロランはすぐさま飛んでいくと、妹を揺り起こす。
「今日はちゃんと起きようねって、昨日約束したじゃないか!」
「え~……でも眠いんだもん……」
「大体、お客さんの前でパジャマで……失礼だよ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか、エディスが起きられないのはいつものことだろう?」
「いつまで? お父様はイーディがいつまでもこんなだらしない子でいいって言うの?」
「よくないけれど、怒るのは今じゃなくてもいいだろう。君の言うとおり、折角お客が来ているのだから」
「ていうかお客さんって言っても~……ケーくんじゃん……」
「っ……」
まあまあ、落ち着け、とトレイがとりなそうとしたところでついに、ロランの中ではりつめていた何かが切れた。
「——どうしてお前は普通にできないんだ、どこかいかれてるんじゃないのか」
自身でも驚くほど冷たい声が出て、ロランはハッと口を抑える。「ごめん、」とか細い声で取り繕おうとしたのより早く遮るように、リドルは叫んでいた。
「ロラン・ローズハート=クローバー! ……部屋に戻るんだ」
「……はい」
ぽっかりとした空洞のような無表情で、ロランは階段を上がっていく。大人たちはさっと目を見合わせる。おもむろにケイトが席を立った。
「オレが行くね。二人はイーディをお願い」
「待て、ボクが……!」
「いや、ケイト、頼んだ」
トレイはリドルの腕をやんわりと掴む。エディスはさすがにもうぱっちりと目を覚ましていた。溶けない飴玉を口の中で転がすように解せない表情で、投げられた言葉を反芻していた。今、この場では、ケイトの言うようにそちらに寄り添う方が優先だろう。何より、リドル自身が明らかに狼狽していた。この冷静ではない状態では、息子をより傷つけてしまうかもしれない。
「くっ…………」リドルは目元を抑えて呻く。
「あれではまるで、あの頃のボクだ」
他人や自分を傷つけるほどの、厳格さの暴走。他人のいたらなさへの怒り。身に覚えのある激情の爆発だからこそ、リドルではかけるべき言葉を見つけられないだろう。
「リドル……」
トレイは気遣わしげに呟くと、速やかに今もっともケアされるべき娘の隣に腰を下ろした。そして優しく言葉を選び始める。
「……昨日は早くにおやすみを言ったよな?」
「……うん」
「……また暗い部屋で遊んでいたのかい?」リドルも反対隣に腰かける。
「ううん、ベッドの中でずっと目を閉じてたよ。でも、なんだか頭の中がわーってなって、なかなか眠れなかったの」
「そうか……」
「わたし、“いかれてる”の?」
「そんなことあるものか」
リドルは震える声で、けれどはっきりと否定した。
「確かにだらしないところやよくないところはあるかもしれないけれど、“いかれて”なんているものか。——キミも、あの子もね」
そして、あの頃のリドルも、トレイも。関わってきた人々の誰もかも。人にはそれぞれ欠点や弱点がある。けれどそれらの要素もまた、その人を形作っている。その人だけの“普通”を成している。それを誰かがおかしいだとか異常だとかいかれているだとか決めつけることはできない。ましてや、成長途中で日々変化している子供や若者ならば尚更。そんなことを受け入れて理解するのに、リドルは随分と時間がかかってしまった。
「……ケイトがいてくれてよかった」
ケイトはいつだって、家族に寄り添ってくれた。近年は仕事の都合で少し離れていたが、心はいつでも繋がっている。その頼もしさを、トレイもリドルも疑ったことはなかった。