秋雨と春雷(前編)

メギド72/イポス×ウァレフォル

イポスとウァレフォルの間に子供ができるけど、育てられなくて手放してしまうお話です。前半は子供視点になります。
イメソンは人間椅子の『盗人讃歌』。
メインストーリー113話前に書いたものです。

 

 

私と姉が産まれる少し前から、ヴァイガルドは赤い月やらハルマゲドンやらエクソダスやら他にもいろいろでそれはもう大変だったらしい。この平和なライヒ領ですら、ご領主様がお留守にされたりしてそれはもう大変だったそうだ。もっともその頃私たちは幼児と赤ん坊で、今はもうすっかり落ち着いた世界しか知らないのだけど。だから、たまに孤児院にやって来る男の人の『傭兵』という仕事も今一つピンと来なかったし、ご領主のお屋敷で希望者を募って剣の指南をやっていることも、姉がそこに剣を習いに行っている理由もよくわからない。

「剣ならイポスも持ってるんだから、イポスに習えばいーのにね」

「ジュビアは俺のことが嫌いなのさ。悲しいね」

「えー? そんなことないと思うよ」

「実際のところ、俺はたまにしか来られんしな」

姉と私は小さい頃からこの人によく懐いていて、しょっちゅう纏わりついては抱っこや肩車をねだっていた。気のいい傭兵のおじさんは快く構ってくれて、私たちは彼が来るという前日はわくわくして眠れなかったほどだ。

単に彼が優しくて気さくだからなのか……というと、最近は少しばかり疑念があるけれど。

姉と私はあまり似ていない。ブルネットの髪に菫色の瞳をした姉と、ブロンドに葉っぱ色の瞳をした私とでは印象が違いすぎる。それでも同時に孤児院に連れてこられた私たちは、間違いなく血の繋がった姉妹なのだという。よくよく目を凝らせば、耳や輪郭なんかは似ているのかもしれない。

孤児院の塀には、イポスが抱き上げて座らせてくれた。私の隣に寄りかかる彼の髪は姉と同じブルネットで、瞳は私と同じ葉っぱの色だ。

「……イポスって、私たちのお父さんなの?」

「なんだ、いきなり!?」

「サウワーがね、『お前らも“預かり組”なのかよ』って聞いてきたの」

孤児院にいる子供たちは、必ずしも天涯孤独というわけではない。家庭の事情か何かで預けられている子供たちもいる。そういう子供たちのところには親が度々面会に来るので、時々訪れるイポスと仲がよく……そして似ている部分を持った私たちは親子なのではないかと、同じ孤児院の男の子に最近噂されているのだ。

「無論、違うぜ。俺は所帯を持ったことはねえ。今になってそれが惜しくなったんで、たまたま知り合いがいるこの孤児院で都合よく親父ぶってるだけさ」

「よくわかんないけど、違うんだ……」

私はちぇ、とイポスの帽子を取り上げて塀の上に横たわった。天気がいい。眠くなりそうなくらいだ。私はイポスの帽子を頭の上にかぶせて、目を閉じた。しばらくそうしている私の隣に、イポスはそのまま居てくれた。イポスが来る日に、孤児院のおつかいや当番がない日が重なるとこうして一緒にゆっくり過ごせるので嬉しい。いつもならイポスは、座って武器を手入れしたり、手帳を開いて次の仕事のことを考えたりしている。でも今日は、ぽつりとこう言った。

「まったく、どうしてアレからコレが産まれたのかね……」

「どういうこと? イポスは私のお母さんのこと知ってるの? やっぱりイポスが私のお父さんなんでしょ!」

跳ね起きた私に、イポスははぐらかすように笑った。

「狸寝入りかよ、悪い子だな」

「本当にそうだったら嬉しいんだもん」

「おいおい、いいのか? こんな根なし草が父親で」

イポスはことあるごとに傭兵という仕事がどんなに危険で不安定なのか私に説いた。一方で、その語り口からは彼がその仕事をどれほど気に入っているかもよくわかった。

「着いていくよ! お姉ちゃんだって、もしかしたらそのために剣を習ってるのかも!」

「——馬鹿なこと言わないで。帰るよ、トゥルエノ」

びっくりして塀から落ちかけた私を、イポスがキャッチする。姉が剣の稽古を終えて帰ってきた

「こんにちは、イポスさん。ごめんなさい、妹が変なことを言って」

「お帰り、ジュビア。剣を習い始めたんだって?」

「ええ」

「堅いねえ。昔みたいにお前も塀の上に座らせてやろうか?」

「もう子供じゃないんで。それより、妹を下ろしてやってくれませんか? もう日が暮れるから」

言うほどまだ暗くなっていないと思うけど、そうして油断していると孤児院の夕食を食いはぐれてしまう。

「イポス、またね!」

「おう、またな」

私は最後に一度ぎゅっとイポスに抱きつくと、姉と二人で孤児院の方へ駆け出していった。

 

***

 

「ねえ、本当にイポスは私たちのお父さんじゃないのかな?」

「トゥルったら、もうひと月もその話ばっかりして。いい加減しつこいよ、違うって言ってたでしょ」

姉は私の金の髪を編みながら言った。朝はこうして髪を編んでくれて、夜は髪を梳かしてくれる。孤児院は集団生活だし、日中はバラバラに過ごすことも多いけれど、一日の始まりと終わりのここだけは姉妹の時間だった。

「あの人はここに寄付してくれてる変な傭兵のおじさん。それだけ」

「お姉ちゃんは何か覚えてることはない?」

「私もすごく小さかったから、ここに来る前のことなんてほとんど覚えていないし……」

院長先生の部屋に、赤ちゃんが入ったカゴと一緒に長い時間座らされている。それが一番古い記憶なのだと姉は言う。

「あんた、今まで親のことなんか気にしたことなかったじゃない。そんなにサウワーのことが気になるの?」

「そういうわけじゃないけど……」

姉の言う通りこれまでが親のことを考えなさすぎたのかもしれない。手がかりの品や形見の品があるわけでもなし。くれたのは身体と名前だけだ。いないのが当たり前で、本当に考えたことすらなかった。けれど産まれてきたからには自分たちにも親はいる。そういう当たり前のことが、今さら気になってしょうがないのだ。サウワーの発言はきっかけでしかない。

「ほら、もう行きな。あんた今日は焚き木の当番でしょ」

「……ちぇ、今日はイポスが来る日なのにな~」

親はいなくても、共同体はある。そして子供なりの仕事も。そうして目まぐるしく日々は過ぎていくからこそ、私はこれまであまりものを考えないで来られたのかもしれなかった。

 

焚き木を集めるために入った森で、ついでに山菜や果実なんかを追っていると、いつの間にか奥へ入りすぎたらしい。おまけに雨も降ってきて、私は慌てて洞窟へ逃げ込んだ。焚き木は湿気るし、しっかり結んでポケット状にしたはずのチュニックの裾はほどけて集めたはずのものは点々と落ちているし、もう散々だ。

「あーあ……」

雨の音はザアザアと強くなっていく。風の音だって。孤児院の部屋でなら、それらを聞いているのも好きなのに。雷まで轟いて、私はぎゅっと身体を丸める。この音だって、光だって、いつもなら好きなのに。

——オオオォオ……

違う、風の音じゃない。私はハッと身を起こす。洞窟の入り口に、大きな影が見える。カマキリ、のような。カマキリはこんなに大きくないし、鳴いたりしないけど。

私は咄嗟に洞窟の少し奥へと退避する。岩壁の影に隠れてしばらくじっとしていた。カマキリのような影は、しばらくそこで蠢いていた。やがて、地面を舐めると、どんどんこちらへ近寄ってくる。地面に転がった、私が落としたフォレストベリーを舐めているのだ、と気がついて、私は更に奥へと逃げようとした。でも、脚がすくんで動けない。それを叱るように雷がもう一度轟いて、私はギュッと目を閉じる。

——キシャアァア……!

怪物の鳴き声の機微なんてわからないけれど、何となくそれは断末魔のような気がした。恐る恐る目を開けると、影がもう一つ増えている。人の影。それは、鎌を落としたカマキリに、もう一太刀、もう一太刀と切りかかった。まずもう片方の鎌が、そして頭が落ちた。そこではじめてほう、と深い吐息が出て、私は息を止めていたことに気がついた。

人影は、崩れ落ちて動かなくなったカマキリの傍に膝をつく。鹿や猪みたいに、カマキリを解体しているようだった。それが終わったら、きっといなくなってしまう。

「……——ェ……!!!」

私は、助けて、とか、待って、とか、気付いて、とかそういうことを言おうとしたはずだった。でも、ほとんど声が出ない。それでも人影は、ぴたりと動きを止めた。

「——誰かいるのか?」

「……る! いる! ここにいる!」

「……子供か。どこの子だ?」

洞窟の奥へと踏み込んで来たのは、眼帯をした、背の高いきれいな女の人だった。私が呆然と見上げていると、その人はかがんで目線を合わせてくれた。

「わ、わたし……ライヒの、トゥルエノ」

形のいい眉が、わずかに動いた気がした。その顔は険しいのに見ているとなぜか安心してしまって、私はぺしゃりとその場に座り込んでしまった。

「ライヒか。丁度用があったところだ。送って行ってやる。……立てるか?」

ぶんぶんと首を振る私を雨除けの外套でくるんで、女の人は軽々と抱え上げる。

「あの……あなたの名前は?」

「……ウァレフォルだ」

「ウァレフォル、さん。ありがと……」

「“さん”はいらん。そんな大層な人間じゃない」

腰にさげた武器や、背負った旅の荷物——その中には、さっきのカマキリからはぎ取った物もあるのだろう——で重いだろうに、ウァレフォルはそれを感じさせない速足で歩いていく。雨粒が眼帯や、片方だけ編んだ髪をつたって、私に落ちてくる。謎の既視感と安心感の中で、私の鼓動は少しずつ落ち着いていった。

「もう大丈夫、降ろして」

いつまでも抱っこされているのは申し訳なくて、私は森の途中でウァレフォルの胸をとんとんと叩いた。

「でも……手を繋いでいてもいい?」

「ああ、構わないさ」

繋いだ手のひらは硬く、ずっと武器を握ってきた手なのだとわかった。私のふにゃふにゃの手とも、最近マメを潰している姉の手とも違う。ふと横顔を見上げてやっと、この人の顔は姉に似ているのだ、と気がついた。

「外套、貸してくれてありがとう」

「たまには雨に打たれるのも悪くない」

「ウァレフォルも雨、好き? 私も本当は雨や雷、好きなの。私の名前、“雷”って意味なんだって」

「……そうか」

「お姉ちゃんがいるんだけど、ジュビアって名前でね、そっちは“雨”って意味なの」

「……いい名前だな」

「でしょ! それでね、雨の日は雨粒や雷を見るのが本当は好きだし、雨上がりの外を歩くのが好きで……でも誰も付き合ってくれないんだ、お姉ちゃんも」

姉と似ている、と思ったら益体のないことばかり話してしまう。それでもウァレフォルは私に歩幅を合わせて歩きながら、気さくに話を聞いてくれる。

「お姉ちゃん、ちょっと前に剣を習いはじめてから剣に夢中なの。時々、領主様が直接教えてくれるのもあるかもだけど……。だってうちの領主様すっごくかっこいいもん!」

「お前もやってみればいいんじゃないか? できるようになって損はないぞ」

「えっ、私が?」

領主様やイポスや姉のように剣を振るう。その意味を、先ほど怪物に遭遇してやっと、肌で理解できた。この世界は、私が思っていたほど安全ではないのだ。恐怖の記憶は、はっきりと私の中に刻み込まれた。そしてそれを打ち払ってくれた影への憧れも。

「……ねえ、私も剣を習ったらウァレフォルみたいにかっこよく戦えるようになるかな?」

「鍛練次第だろうな。まずやってみないことには始まらん」

「両手で剣を使うのってどんな感じなの? 難しい? そっちの方が強い? 領主様やイポス……あのね、よく孤児院に来る傭兵のおじさんなんだけど……は剣一本だよ?」

「どちらが……ということはないな。最終的には使い手に合っているかどうかだ」

どんな風に剣を練習してきたのか、ウァレフォルは語ってくれた。時折私が挟むくだらない質問もちゃんと考えて答えてくれる。イポスがお父さんなら、お母さんはこの人だったらいいのにな、と思った。雨が小降りになって、明るくなってきた空の下で見るブロンドは私とお揃いだった。……たまたま通りがかって私を助けてくれた人がそうなんて、さすがにそんな偶然あるわけないけど。

 

「トゥルエノ!」

森を抜けて街へと帰りつく。街の入り口に立っていた姉が、血相を変えてこちらに駆け寄ってきた。その隣には、イポスが立っている。

「お姉ちゃん!? 今日は剣の日じゃないの?」

「森の方で怪物が出たって聞いて、心配で……! 怪我は!?」

「大丈夫! この人が守ってくれたの!」

姉が私を抱きしめる傍らで、イポスとウァレフォルはどこかバツが悪そうに向かい合っていた。

「……よう、久しぶりだな」

「まだ死んでいなかったか。貴様との縁がここまで切れんものだとはな」

「そう言うなよ、子供の前だぞ」

「……トゥル、先に孤児院へ帰ってて。私はこの二人と大事な話があるから」

「……? わかった。イポスもウァレフォルも、またね!」

一体何を話すことがあるのだろう、と思ったが、今日はこれ以上姉を困らせたくなかった。私は二人に一回ずつぎゅっと抱き着くと、大きく手を振って走り出した。

 

***

 

旅立ちの朝は早く、まだ朝もやが立ち込めていた。院長先生と最後に強い抱擁をして、私は孤児院を出る。先に出た姉は、キャラバンの荷の積み込みに加わっている。私も少しまごつきながら加わった。17歳になった姉が少し規模の大きなキャラバンの護衛見習いとして孤児院を出ることになったので、私も少し早いけれど着いていかせてもらうことになったのだ。数年前大カマキリに遭った日の後に習い始めた剣技はまだ姉には及ばないけれど、護衛以外にもやるべきことはたくさんありそうで、きっと暇はしないだろう。

隊列後ろから二番目の馬車の御者台から後ろを振り返ると、ライヒ領はどんどん小さくなっていく。これからどんな世界が見られるだろう。

「ねえ、トゥルエノ。一時期すごく両親のことを聞いてきたけど。まだ知りたいと思ってる?」

隣に座った姉が、携えた剣を見つめながら言った。細身で軽いそれは、餞別にイポスが贈ってくれたものだった。私は、自分に贈られた方の剣を見る。もう14歳にもなれば、なんとなく察しはついていた。

イポスは最近まで定期的に孤児院を訪れ続けた。最後に会った時、『子供の成長は早いもんだ』と目を細めて、二振りの剣を贈ってくれた。

ウァレフォルに会うことは稀だった。彼女も実はずっとライヒ領に通ってはいたようだが、私たちの前に姿を現してくれたことはほとんどなかった。運良く捕まえられたときに、『ウァレフォルって私たちのお母さんなの?』と問いただしたこともある。その答えは、『お前たちの母親はもっと真っ当なヴィータさ』だった。結局二人が、親として名乗り出てくれることはなかった。

「本当は……両親が欲しかった? 家族が欲しかった?」

そう尋ねられて、私は首を横に振った。ちゃんと考えてみれば、二人に私たちを引き取ってもらいたいわけじゃなかった。友達もいる孤児院やライヒ領が好きだったし。一度『違う』と言われたのなら、それ以上追求するつもりはなかった。

「一緒に暮らしたいとかじゃなかったね。ただ、どんな人から産まれたかわかんないけど、それがイポスやウァレフォルだったら、ちょっと嬉しかっただけ」

自分にもそういう人がいたのだ、という事実以上に欲しいものは、なかった。両親かもしれない人を追いかけるよりも、姉が守った秘密を、知らない振りをして一緒に守ることの方が、私にとっては結局ずっと大事だったのだ。

「家族なら、お姉ちゃんがいるじゃん」

「……あっそ」

そう言ったきり姉は、手綱を持ち直すと遠くを見据えて口を閉じた。短く切りそろえられた髪が縁取る横顔を見ていると、なんだか私の方も照れ臭くなってしまって、視線を流れていく景色へと逸らした。

この世界のどこかで、きっとウァレフォルやイポスは戦っている。私と姉も、これからきっとめまぐるしく生きていく。馬車の列は、街道の三叉路を右へと進んだ。いつか、姉とも別の道を行く日が来るのかもしれない。でも、初めから家族じゃなくても、いつか家族じゃなくなっても。剣や、抱擁の記憶で繋がっていることは、できる。

「今日は雨かな。本降りになる前に次の街に着くといいけど」

雨が降る前の、湿った土の匂いがして、私は空を見上げた。