飛び去る翅の下で - 2/2


おまけ

ウナギを追いかけて

 

「なぁ~にしてるの? ちいちゃい金魚ちゃん」
「…………」
「ねえ」
「…………」
「楽しい? それ」
「えっ……なに? わたし?」
「他に誰もいねーじゃん」
エディスは顔を上げ、蜂蜜色の瞳を大きく瞬いた。ワンピースの上につけた白いフリルエプロンは土にまみれて、少女趣味な飾りでなく役目を果たしていることを示している。
庭の垣根の上からぬっと出た顔が、左右色違いの瞳で覗き込む。父親たちと同年代ほどだろうか。少女は愛でていた黄緑色の芋虫を、無造作にポケットへとしまいながら訊ねた。
「おじさん、だれ?」
「通りすがりのウツボ」
Moray eelウツボ? それってどんなEelウナギ?」
「んー? 今はStray迷子のウナギかなあ……人探してんだけど、手伝ってくれない? ちいちゃい金魚ちゃん」
「でも知らない人とお話しちゃいけませんってパパとお父様が言ってたよ」
「でもオレはちび金魚ちゃんのこと知ってるし、ちびちゃんは俺のこと知ってるじゃん」
「……そーかも」
じゃあ行こっかあ、と背の高いウツボは垣根越しにひょいとエディスを抱き上げた。
「ウェー、ばっちい。置いてこっかこれは」
庭には汚れた白いエプロンだけがひらりと残された。

「イーディ、クッキーが焼けてたよ。手を洗っておやつにしようよ——」
ロラン・ローズハート=クローバーは奔放な姉と妹に挟まれた、極めて慎重な少年である。怖いことや危ないことや汚れることを嫌うため、土いじりが好きな妹と一緒になって遊ぶことはしないが、その日も二人で留守番しながらまめに様子を伺っていた。不審者が庭先に立ったのは、彼がキッチンへ向かったほんの5分ほどの間の出来事である。
「——イーディ?」
あまり広くない庭のどこにも、自分と揃いの赤毛は見当たらない。家の中にいるとするなら、どこかですれ違っていなければおかしい。それに、あの妹が家の中に入るにあたってわざわざエプロンを外すとも思えない。ロランはハッとして、庭の垣根から身を乗り出すとキョロキョロと通りを見回した。
背広を着た背の高い男が、妹を抱き抱えて歩み去っていく後ろ姿が見えた。
「エディス!!」
どうしよう、どうしようと地団駄を踏む。姉は部活でミドルスクールに行ってしまったし、父の片方は仕事だ。もう片方は、今日のランチに招く旧い友人を迎えに行っている。連絡しなきゃ。いや追いかけなきゃ。逡巡するロランの脳裏によぎったのは、薔薇の王国の子供なら誰もが知っている、セイウチと牡蠣の民話だ。若い牡蠣たちがもう戻らないと悟った老いた牡蠣は、どんなに後悔しただろう。追いかけて殴ってでも止めればよかった、と。取るものもとりあえず戸締まりをして、ロランは通りへと飛び出した。
「待って! 待ってください! 妹をどこへ連れていくんですか!」
男は振り返ると、にやっと笑って早歩きになった。走ってはいない。だというのに、コンパスの差か運動能力の差か、少しも追い付けない。そのくせ、1ブロック離れそうになると男はにやにや笑ってロランを待った。おちょくられているのだ、と気づいたのは家の周りをぐるぐる回っていることに気がついた時だった。かあ、と羞恥と怒りで顔が熱くなる。
「……う゛~~~っ!」
とうとう、ぜえぜえと息をきらして立ち尽くしてしまったロランに、男は大股で近寄ってきた。2歩程度の距離で向かい合うと、その背はあまりにも高い。その肩でエディスがきゃはきゃはと緊張感なく笑っている。男のギザギザした歯が光るのを見て、自分まで拐われる、もしかしたら食べられてしまうかも、という恐怖が背筋を走った。
「っは、妹を、離してください……! エディスもちょっとは抵抗してよぉ……! あっち行ってぇ……っ!」
必死に腕をぽかぽかと振り回すが、男はにやにやと笑うばかりで歯牙にもかけない。絶望で次第に身体の力が抜けていく。
その時、男の手がゆっくりとロランの顔に接近してきた。恐怖に声も出せず目を見開いていると、ロランがかけていたセルフレームの眼鏡がひょいと取り上げられた。
「!? や、やめてください! 返してください!」
「——アハッ」
男が、屈み込んで顔を近づけてくる。そのため、視力の弱いロランにもその表情はよく見えた。男は、真っ赤になったロランの顔を見て、心底嬉しそうに破顔していた。
「やっぱり。金魚ちゃんそっくり」
何を言っているのだろう。意味がわからない。怖い、気持ち悪い。状況や感情が処理できる限界を迎え、ロランはうわあん、と大声を上げて泣いてしまった。

「キミは、蟷螂が学習机で孵化するのを見たことがあるかい」
久しぶりに会った同級生が車のハンドルを握って言った情景を想像して、ジェイドはにっこりと笑った。
「それは——見てみたいですね」
「笑い事じゃない。本当に大変だったんだよ。真ん中の子が深夜に起こしに来て『部屋の中に何かいる!』って言うものだから明かりをつけたら、末の子の机の引き出しからぞろぞろと——ね」
どうしてそんなことをしたのか、と問い質すと、末娘はこう言った。『ここの引き出しは今一番大切なものを一時的に入れておくところだって、テレビで言ってた』と。なんでも、オフィスデスクの平たい引き出しはその時使用しているものの一時置き場にするべきだ、と仕事術を語るビジネスマンのインタビューか何かをたまたま見かけてそう解釈したらしい。
「どうも、珊瑚の海のコングロマリットのCFOが語ったとか」
「おやおや、それは——聡明なお嬢さんですね」
「全く、一番上も下もやんちゃで困る。穏和しいのは真ん中の子くらいだ。キミやフロイドを育てたご両親の話が聞きたいよ」
「電話しましょうか?」
「いや、いい。そういえばフロイドは今どうしてるんだい?」
「“営業”で熱砂の国に向かったはずなんですが……どうでしょうか?」
「相変わらずフラフラしてるのかい……最後に会ったのは末の子が生まれる前だったかな」
「アズールと二人で伺ったとか」
「全くキミたちは、昔は3人ベッタリだったくせに今はバラバラに来るんだから」
「一応、今でも住所は同じにしているんですよ。3人それぞれの分野で忙しくしていますが……」
「そのうち来ると言いながらなかなか来ないものだから、3人目が産まれて一番上がエレメンタリーを卒業してしまったよ」
「よそのお子さんの成長は本当に早いものですね——今おいくつになられたんですか?」
「一番下は6歳だよ。真ん中は10歳、一番上は14歳」
「あそこにいる親子連れくらいでしょうか……おや?」
ジェイドは歩道を見て、「すみません、止めていただけますか」と言おうとした。けれど、それよりもリドルが車を路肩に寄せてブレーキを踏む方がずっと早かった。
「フロイド!! うちの子供たちに何をしてるんだい!!」
「あー、金魚ちゃん。久しぶりぃ」
車から飛び出し、 真っ直ぐにマジカルペンを突きつける。泣きじゃくるロランを小脇に抱え、エディスを肩車したフロイドに。
「お、お父様! 助けて! 誘拐される——ぎゃっ」
「! ロラン!」
もがくロランを、フロイドはぱっと放した。地面に落下しそうになったのを、すかさず風の魔法で受け止めて着地させる。両足が歩道の石畳に着いた瞬間、ロランは一目散にリドルの背後へと隠れた。
「フロイド、熱砂の国で仕事のはずでは?」
「思ったより早く片付いたから来ちゃった。金魚ちゃんと稚魚ちゃんたちにも会いたかったし~」
昨夜通話した時には『明日金魚ちゃんとウミガメくんち行くの? ふ~ん』程度の反応だったはずだが、また気まぐれを起こしたらしい。エディスを降ろしてやりながら、フロイドは続けた。
「ジェイドより先に金魚ちゃんちに着いちゃったからどうしようかなぁって思ってたんだよねぇ。そしたらちっちゃい金魚ちゃんたちが遊んでくれた」
「お父様、ウナギさんとっっっても足が速いの!」
「それでロランをこうも虐めたのか……相変わらず趣味が悪い。二人とも、車にお乗り」
フロイドにも、子供たちが後部座席に乗り込むのを待って口を開く程度の分別はあった。
「金魚ちゃんさあ——子供できて甘くなった? 見た目は金魚ちゃんそっくりだけど、ちょっと弱っちくねぇ? あんなんでダイジョーブ?」
瞳孔を開いて煽るフロイドに、リドルはふ、と笑った。
「あの子はあれでいいんだよ」
フロイドを置き去りに、運転席に乗り込む。
「わざわざ訪ねてくれたところ残念だけど、ロランが“許す”と言うまでキミをうちには上げない」
「……ハァ?」
ウィンン、と後部座席の窓が下がっていく。目を真っ赤に腫らしたロランが、フロイドを見てサッと目を逸らす。これが最初のチャンスだった。
「え~~~……ゴメンねぇ?」
「どうする? ローリィ」
ロランは、灰色の瞳を伏せたまま、たっぷり数秒考えると、か細いがはっきりとした声で言った。
「…………いやだ」
「だ、そうだよ」
「おや、残念でしたね。フロイド」
「えーーーっ、も~!」
後部座席のドアが閉まっていく。
意地の悪い大人に対して無様に泣き叫んでもいい。『嫌なものは嫌だ』という意思さえ折れなければそれでいい。そう思いながら、リドルはバックミラー越しにロランを見る。
アクセルを踏んだ直後、ジェイドの電話が鳴った。その後車が家に到着するまで謝り倒し、何とかランチには二人の客人が揃ったということだ。