薔薇よさらばと言わないで - 2/8

ユーディス・クロンダイクは意外にも選挙に乗り気だった。彼と同じように、首をはねられないことでほの暗い優越感を得ていた者たちは、“厳格派”と派閥を組む程度にはいたものの、到底多数派ではない。
「不気味だな……」
自分の立ち位置が把握できていないのか。それとも、何か策を隠しているのか。寮長室に設えた急拵えの選挙事務所で、トレイはそう溢した。そこへ、ケイトが飛び込んでくる。
「リドルくん、トレイくん、大変だよっ! ユーディスの政策、ヤバすぎ……!」
スマホで撮影した映像を突きつける。飾り付けられていないパーティー会場で、ユーディスが演説をしていた。

「私は、ハーツラビュルに等級制度を導入する。ローズハートの失敗は、優等者に報奨を与えなかったことだ。違反の少なかった者には、学生生活の支援や“なんでもない日のパーティー”におけるプライオリティを約束しよう」
ハートの女王の法律に違反しない範囲で、お菓子や食事に口を出す権利。単位取得の手助け。それらを与えようとユーディスは宣言する。
「なに、私とて鬼ではない。頑張った者が報われるような寮にしたいだけなのだ」
集まった寮生たちは、その言葉に沸き立った。その熱気に、ケイトの分身がおずおずと冷水を浴びせる。
「あのー、上があるってことは下もあるよね? どうしても法律を守れなかったらどうなっちゃうの?」
ユーディスは、至極当然、という顔で答えた。
「上のものに下のものがリソースを捧げるのは、当然のことだと思わないか?」
「その上下関係を成り立たせる執行力は?」
仮に優等者と劣等者に分かたれ、扱いに差をつけられたとして、鼻っ柱の強いNRC生たちがその状態を受け入れるだろうか? ルールを反故にして暴力で奪い取るような、本末転倒の状態に陥りはしないか。
「……なるほど、確かに私はローズハートのような首枷は持たない。だが、人を動かす方法というのはそれだけではないだろう」
そこで、ユーディスはちらと隣を見た。スマホを構えるケイトの本体も何かに気がついたようで、ズームさせる。ユーディスの隣に立っているダイヤのスートの生徒は、ハーツラビュルの会計役だ。これもまた、寮長副寮長の陰に隠れがちだが立派な役職である。主に寮費の管理や領収書の取りまとめなどを担う。最終的な承認は寮長が下すが、まず彼に領収書を受け取ってもらえなければ、買い出し費用は自腹となる。これまでのハーツラビュルにおける会計係の働きはリドルへ取り次ぐ窓口のようなものでしかなく、ただ淡々と真面目に領収書や予算の受け渡しをこなしていたにすぎないが、本来ならば特定の“優等者”や“劣等者”を金銭的に優遇・冷遇することは充分可能である。会計係の引っ込み思案な3年生の表情は、長い前髪に隠されて判別しがたい。
薔薇よさらば、というシュプレヒコールを遠ざけながら、動画はめちゃくちゃにぶれて終わった。スマホを持ったケイトの本体が、その場を分身に任せてここへ急いだということらしい。

「会計係を抱き込んでるのか……厄介だな」
「……ありがとう、ケイト。有益な情報だった。……でも、キミはどうして——」
リドルが問いかけたその時、けたたましく扉が開く。飛び込んできたのはエースとデュースだった。
「あーっうぜーっ! 寮長います? 絶対勝つぞ選挙!」
「おいエース! ……すみません! 寮長! “前寮長派”の件で報告です!」
ナナ・ティエン=レンは今や“前寮長派”の旗印を掲げているらしい。この選挙の発起人ではあるものの、やや考えが足りない部分があり、選挙活動も拙い。しかし、彼の周囲には2年生が多く集まっていた。他人を頼るのが上手く、寮長就任後のハーツラビュルのビジョンについても、広く意見を募る。そんな彼の回りに、ちらほらと前寮長を惜しむ3年生も集まりつつあった。次は1年生の票を取り込みたい、と参謀格の友人が囁く。厳格さには耐えきれずとも前寮長時代を知らないため、緩いハーツラビュルがピンと来ないのだ。そして、“前寮長派”はエースに接触を図った。
『お前のやったこと、本当にスカっとしたよ!』
『あーそうッスか』
『なあ、こっち側に来てくれないか? 新しいハーツラビュルの中心にはお前みたいのがいてほしいんだよ。なんなら副寮長に指名してもいい』
『……あの時は見てただけのくせに、今更になってそんなこと言うの、恥ずかしくないわけ?』
『っ、それは——』
『あのさー、寮長も変わるって言ってんじゃん。この前のなんでもない日のパーティーのリベンジもするって言ってたし、判断するのはその後でもよくねえ?』
『リベンジ?』
『あーその時いなかったっけ……とにかく、寮長一人でタルト作るって約束させたからさあ』
『あのローズハートが一人で……?』
『想像つかない? 俺も。でも楽しみにしてんだよね、あの人がどんなもん作るのか』
『……お前にとっては、もう終わったことなんだな』
直接殴り合い、悲痛な叫びや嗚咽を聞いたエースはもう寮長の座を奪おうという気にはなれなかった。本人のこれからの変化を見たいと思う。けれどあの場にいなかった他の寮生たちにとってはそうではない。変わると言っても、信じられるものではない。
決裂の後のモヤモヤした気持ちをひとしきりデュースに愚痴ったあと、エースはその足で寮長室へと駆け込んだ。