オーブンからタルト台を取り出し、リドルはため息をついた。底が膨れ上がってしまい、平らでなくなっている。これでは十分に中身を詰められないだろう。あらかじめ“ピケ”と呼ばれる穴を空けて空気の逃げ道を作らなければならないが、それが不十分だったらしい。リドルは焼く前の写真と焼き上がりを眺め、改善点を書き記す。
図書室から借りてきたレシピ本のカラーコピーは、既に書き込みでいっぱいだ。予定ではそろそろ中に詰めるカスタードクリームの練習にも入らなければならないが、この分ではもう少し難易度の低いものに変更することも検討しなければならない。
リドルにとって理想のタルトは、あの時トレイが食べさせてくれたものだ。サクサクと口の中で崩れるタルト台に、甘味を知らない舌に訪れた福音のようなクリーム。そして、きらきらと輝くイチゴの、弾けるような果汁。そうした理想と、どうにか実現できそうな現実の落差にまたもため息が出る。けれどもしも、技術的にリドルにも完璧なイチゴタルトが作れたとして——それは記憶の中のトレイやチェーニャと食べた味には及ばないのだろう、とわかっていた。わかっていても、せめて子供の頃リドルの視線を惹き付けたきらきらのナパージュだけは、できるようになってみたいとレシピ本の記述を読み直す。
その時、廊下から談笑するような声が近付いてきた。2年生と3年生がそれぞれ数人ずつ。彼らはリドルを見て、ピタリと静まり返る。キッチンの共用冷蔵庫に用があった数人と、それに着いてきたのが数人、というところか。何人かが躊躇いがちにリドルの背後を横切り、何人かは戸口に棒立ちのまま固唾をのんでいる。
戸口に立っている方に、ナナとトレイもいた。それを見てちくりと胸が痛む。ナナは素朴な黒い目を丸くして、凡庸に驚愕している。なのですぐ隣に立つトレイが、リドルをじっと見つめて声を出さずにぱくぱくと唇を動かすのにも気付いていなかった。
(何だろう、“お”……?)
トレイが“前寮長派”の寮生たちと一緒に立ち去ってしまった後、リドルはぐっと背筋を伸ばした。トレイが何を言おうとしたのかは読み取れなかった。けれど、リドルを見つめる視線は昔からずっと変わらないぬくもりをたたえている。それはリドルを奮い立たせるには十分だった。
「……あっ、もしかして……?」
大切な隠し味の話を思い出させようとしたのだろうか、と思い当たったリドルは、レシピ本のカラーコピーの角に“オイスターソース”と走り書きした。
(“こいつは抑える”って……ちゃんと伝わったかな)
「……その、なんつーか、意外です。あのローズハートがキッチンに立っているのを見るのは」
「そうか?」
「お茶会の準備だって、指揮ばかりで一緒に動いたことはないですから」
「あいつだって最初の一週間は薔薇を塗ってただろ?」
そうでしたね、とナナは苦笑した。たったの一週間のことだし、リドルは一瞬で薔薇を塗り終えてしまっていてあの時期の1年生は手持ち無沙汰だった。
その魔法の見事さに、“すげえ”と称賛の気持ちが浮かんだことをナナはハッキリと覚えている。それがすぐ、寮長に決闘を挑んでその座を勝ち取ったことで畏怖に変わってしまった。自分と同じ、右も左もわからない一年生だというのに、どうして寮長を努められると思うのか、心底理解ができなかった。なのに実際のところ、彼は“女王”として立派に立っていた。ナナたちは、“自分とは違う”一年生なのだとリドルを遠巻きに見上げていた。やがて圧政が始まり、彼らの首に枷がはまり出す頃には、その距離について見つめ直すこともないまま、リドルを異物として憎むようになっていた。リドル・ローズハートは怪物なのだ、と。
「例の……トラッポラとの約束をちゃんと守る気なんですね」
生意気な後輩の約束など、反故にするのではないかと思っていた。あるいは、面倒見のいい副寮長に押しつけるのではないかと。血も涙もないと思っていた寮長が、一人で慣れない作業に四苦八苦している様は、偶然目撃した“前寮長派”たちを大いに動揺させた。
ざわめく仲間たちの少し後方で、ナナ一人が、果たしてそれは本当に“偶然”なのかと思い当たる。副寮長にして寮の頼れる兄貴分であるトレイ・クローバーが“前寮長派”に接触してきた時点では、勿論スパイ行為を疑う声も多かった。けれど彼が日頃から培ってきた信頼や、“前寮長派”への献身的な情報提供から、次第にトレイ・クローバーを疑うものは減っていく。
——あのクローバー(先輩)も、とうとうローズハートに愛想を尽かしたらしい。
そんな風に自分たちを納得させながら、“前寮長派”たちはすっかりトレイを受け入れていた。ナナだって、そうだ。
「——あいつは約束を守るやつだよ」
トレイがそう言った時、最初からそれが狙いだったのだとナナは気がつく。次に出るであろう言葉は、もうわかっている。
「なあ、今のあいつ以上の寮長になれる自信があるか?」
「……俺に、降りろって言ってるんですか?」
トレイは身内として入り込んでから、ナナだけに接触して、“説得”するつもりだったのだ。仲間たちはもう談話室に着いているのに、ナナとトレイだけが廊下に立ち止まっている。
「無理ですよ。そりゃ、俺はローズハートに比べりゃ劣りますし、自信なんかないです。でもこんな俺でも、着いてきてくれる奴らがいるんです。そいつらを裏切れません」
「……リドルにもそういう奴らがいたらよかったのにな」
夕暮れの光がトレイの眼鏡に反射している。その奥の瞳は、自嘲するように細められている。
「あんたはどうなんだ? 俺にとってのあいつらが——ローズハートにとってのあんたなんじゃないのか」
「……俺だけじゃ、ダメなんだ。なあ、ナナ。以前のあいつがしてきたことを忘れられないのはわかる。でも、今のあいつを見てどう思った?」
「……」
ナナの脳裏には、友達と飲むレモネードを台無しにした鬼のような威容がいまだに焼き付いている。一方で、あの時深々と下げられた頭を、小さくて丸いな、と思ったことも覚えている。『これからはキミたちをけして傷つけない。少しずつ変わっていくから、もう一度ボクを信じてついてきてもらいたい』——あの時リドルは、そう言ったのではなかったか。
「なあ、ナナ。頼む。信じてやってくれないか?」
トレイの眼差しはただただ真摯だった。心からリドルのことを大切に思っているのだろう。キッチンの入り口に立つトレイを見つけた時のリドルの寂しげな表情を見るに、きっとリドルだってそうだ。
ナナは友情を尊ぶ男である。ナナが友人たちを大切に思うように、他者と他者の間にもある友情をも尊重したいと思っていた。
リドルは変わろうとしている。そしてその傍にはトレイがいる。隣にはいなくても深く思いあっている。ならば、自分たちとも、真っ当な同級生同士になれるのではないだろうか。友達同士になることは無理でも、もはや理不尽な怪物でないのなら。もう友情を踏みにじることがないのなら。