薔薇よさらばと言わないで - 6/8

現在の役職の任命理由について、公開質問の場を設けたいとのユーディス・クロンダイクの申し入れを、リドルは了承した。失言を引きずりだしてこちらを蹴落とすためなのはわかりきっていたが、乗らないのもかえって寮生たちの心証を悪くする。
公開質問の会場として整えられたパーティー会場は、簡素な長机が二つ置かれているのみで、どこか物寂しい。常緑の木漏れ日が、今は二人の候補者を容赦なく照らすライトのようだった。
「“副寮長”として立候補してきたクローバーを、貴様は精査することなく採用した。それで相違ないか? ローズハート」
このハーツラビュル寮監督生は、余計な前置きを嫌う。副寮長トレイ・クローバーについて迷いなく切り込んできたユーディス・クロンダイクに、リドルは首肯した。
『一人じゃ大変だろ? 俺でよければ副寮長として手伝わせてくれないか?』
周囲全てが遠巻きにする中、トレイだけが声をかけてきた。その時のことは今でもありありと思い出せる。幼い日の美しい思い出を片時も忘れたことはなかったし、彼が自分を覚えていてくれたことが嬉しかった。けれど、その着崩した寮服はリドルの理想とした規律からは離れていて、わずかな苛立ちと失望を覚えた。
『いらない。ボク一人で十分だ』
だから一度、その手を振り払ってしまったのだ。それでもトレイは苦笑して、まあそう言うなよ、と懲りずに言葉を続けた。
『これでも一年先輩なんだ。頼ってくれてもいいんじゃないか? 寮のことだけじゃなく、勉強だって頑張るつもりなんだろ?』
トレイの変わらない優しさに、リドルの心は数年振りに揺らいだ。一つしか違わないのに、兄貴ぶりたがるトレイ。その優しい顔と声は、リドルをあの楽しかった数ヵ月に戻してくれるような気がした。娯楽の一切を捨てて頑張ってきたリドルを堕落させるような気もした。これがもし他の寮生だったなら、『取り入ろうとするな』とはねのけていただろう。トレイだったから、リドルは再び『いらない』ということができなかった。長い長い葛藤の末に、リドルは再びその手を取った。
『……使えなかったら、すぐに首をはねてやるから』
『はい、寮長』
きっと“幼馴染み”の“後輩”が“寮長”になって難儀していたから。トレイにとってはそれだけの申し出なのだと、その時は思っていた。トレイは誰に対しても親切だ。そういう所に憧れていたのだと、数年振りの再会で思い出したはずなのに、何故か胸がちくりと痛んで、どうしてもつれない態度を取ってしまった。

「ただ旧知であるというだけで、クローバーを任命したというのならそれは厳格の精神に悖る大問題ではないか?」
「…………ただ旧知だからというわけではなく、彼が信用に足る、実力のある人物だとわかっていたからだよ」
「では、質問を変えよう。“監督生”や“会計係”を任命する際、貴様は登用試験を実施したな、ローズハート?」
「……そうだね。一般的な学力は勿論、ハートの女王の法律に対する理解度を図るテストを実施した。——その過程には何も問題はなかったはずだけれど」
「問題がなかった? ではなぜ、試験による任命対象に副寮長はなかったのか? 試験後に副寮長を解任し、最も優秀なものを任命し直すべきだったのではないか?」
「そもそも、試験で役職を任命するよう提案したのはトレイなんだ。自分一人で何もかもをやろうとしていたボクに、寮長以外の役職の存在や慣例を教えてくれた。その功績は、彼を副寮長として留め置くにあまりあると思うのだけれど」
『空席にしてる寮も多いが、規則上補佐の役職は存在してる。副寮長に会計係に書記に監督生……確か他にもあったはずだ。数あわせでも、置いておいた方がいざという時に使えると思うぞ』
そのトレイの提案をリドルは承認した。ソートされた名前と点数がずらりと並ぶリストの上から順に声をかけた。それはトランプの山札から数字の大きいものだけを引き抜くような、無味乾燥な選択だった。
今、目の前に立っている男はトランプではない。数値化できるものや規律だけを盲信した、一人の人間だった。かつてのリドルに似た眼差しで、山札にクラブの3を戻さなかったのはなぜかと訴えかけている。
「奴がハートの女王の法律の理解度に乏しいことは先だってのなんでもない日のパーティーで証明されたはず。服装においても乱れが目立つ。優秀とは言い難い人間を副寮長に置いているのは、不純な私情に過ぎないのではないか?」
「トレイ以外に——キミにトレイと同じ働きができたとは思えないね」
数多のトランプ兵の中で、なぜ彼が、彼だけが特別だったのか。その答えから逃げるわけにはいかない。
「トレイは間違いなく優秀だ。厳格とはただ感情を排することではない。人の心に寄り添うことに関して、彼の能力は郡を抜いている」
リドルは、ユーディスを見据える。スマホを向けるケイトや、エースとデュースを見る。固唾を飲んで答弁に耳を傾けている寮生たちを見る。そして、胸を張って答えた。
「そして能力というのは、トランプの裏面に書かれた数字のように一面的なものではない。沢山の人がボクにそれを教えてくれた。でも、最初に教えてくれたのは、教えてくれていたのは——トレイなんだ」
リドルにとってのユーディスは、そうなっていたかもしれない可能性の一つだった。その道を分け、別の方向へと進ませたのは、紛れもなくエースやデュース、ケイト、そしてトレイだった。
「キミに、そういう人はいないの? オンセ・バンコは?」
リドルが会計係の3年生の名前を出すと、ユーディスはぐっと唇を噛んだ。オンセは、忠実にユーディスを支えている。今この時も、神妙な眼差しで最前列に控えている。しかし、ユーディスが彼に副寮長のポストを約束したことに一番戸惑っているのも、オンセだった。
『矛盾している、と思ってしまった』
彼が同じクラスのケイトにその複雑な胸中を漏らしたのが、油断だったのか背信だったのかはわからない。
『ユーディスが厳格に、優秀な順に役職を選ぶなら、副寮長はローズハートになるはずだろ。僕じゃない』
その後のオンセの言葉を、ケイトはリドルに伝えなかった。それはきっと、個人的で特別な感情だった。
『一緒にやろう、協力してくれ——って、言ってくれたら、それだけでよかったのに』

ユーディスはぎゅっと、何度もまばたきをする。その目には誰も映ってはいない。結局彼がリドルの質問に答えることはなく、公開質問会は、ざわめきのままに終わった。