談話室に設えられた急拵えの演壇は、リドルが立っている間はまるで法壇のような厳かさがあったが、降りてしまえばただ机にカバーをかけたものでしかない。
ユーディスは談話室を抜けようとするリドルの手をさっと捕まえるような握手をすると、またパッと離した。
「完敗だ。これでもう文句はない」
「あっさりと敗けを認めるのだね」
「私とて引際くらい弁えているさ。今後ハートの女王の精神が蔑ろにされるのなら、その限りではないが。女王に二言はないだろう?」
「うん、その時はいつでもかかっておいで」
ユーディスは満足げに笑った。彼が笑むのを見るのは初めてだったので、リドルは少し面食らう。
「ところで寮長——私は監督生を辞したい。後釜にはダイヤモンド辺りを据えるといい」
「ケイトがやりたがるかな……。でも、わかった。ユーディス・クロンダイク。今日をもって監督性の任を解く。書類の手続きは後日でも構わないかい」
「ああ、引き留めてすまなかった。では寮長、私はこれで——」
「じゃ、僕も」
別方向から間に入るようにひょっこりとオンセ・バンコが現れると、リドルの手に一本の鍵と帳面の束を押し付ける。
「これ、金庫の鍵と、帳簿……変なところは、ない、はず……」
オンセの声は尻すぼみになっていく。ハーツラビュルの会計係としてのプレッシャーのなかで彼なりに頑張ってはいたが、いざ厳しいリドルに帳簿を引き渡すとなると緊張するらしい。
「今までだって定期的に見直していたけれど、キミはよくやってくれていたよ。安心おし。……これは大切に保管するから」
「そうかな。……よろしくね、寮長」
ぎこちなく向き合うユーディスとオンセから離れたリドルを、談話室出口で引き留めたのはナナだった。
「なあ、ローズハート。早速言いたいこと、あるんだけど。すぐ済むから!」
「……何だい?」
「なんでもない日のパーティーの連絡。基本掲示だけどさ、マジカメのグループにしない?」
「マジカメ……? やっていない者もいるだろう? ボクもだけれど」
「そっか、やっぱりやってなかったのか……。やってないやつのことは把握してフォローするからさ!」
「……わかった。今度ケイトに相談してみる。その後のことも含めてしっかりと話し合おう」
少し苦く笑ったナナは、帳簿の隙間に一片の紙切れを突っ込んだ。
「一応これ、俺のID。お前がマジカメ始めることがあったら、登録してくれよ! 2年のグループにも招待するからさ!」
「……うん」
「じゃ、引き留めてごめんな! ……ほら! 早く行きなよ、寮長!」
「——うん!」
ナナに背中を押されて、リドルは歪曲した廊下を走った。いの一番に談話室を飛び出したトレイ・クローバーを追って。
「トレイ!」
「……リドル!」
トレイは薔薇の迷路の中に一人佇んでいた。石畳にカツカツとヒールを叩きつけながら、リドルは一直線に走り込んでいく。速度が出すぎていて、右足と左足を交互に出し続けなければ転倒してしまいそうだった。それでもいい。ブレーキなどいらない。前のめりに飛び込んできたリドルを、トレイは迷わず受け止めた。
「トレイ、その……ごめん」
「何がだ?」
衝突して倒れ込んでしまったこと。目立つのが好きでないトレイを衆目の中に晒してしまったこと。“前寮長派”に身を寄せたトレイを一瞬でも疑ったこと。先程までの演説が嘘のようにしどろもどろになりながら謝るリドルの頭を、トレイは抱き寄せた。
「どうってことないさ。——これまでも、これからも。お前の隣にいるためならな」
勢いよく顔を上げたリドルから、トレイは照れ臭そうに目を逸らす。
「正直なところ、お前が思ってるより俺は、お前がいないとダメなんだよ。——離れている間もずっと大切に想っていたけど、それにしたってまた再会する前提だ」
絶えずそばにいることは不可能でも、絶えず求め続けることはできる。一度としてリドルのことを諦めたことがないトレイだから、リドルのために離れることができた。
「トレイ……ボクもね、トレイと離れていた間は不安だったよ。寮長と副寮長じゃない、ただのボクたちになって、また一緒にいられるだろうかって」
“幼馴染み”という関係は、過去を起点とするもので。未来にわたって繋がり続けるには、双方の新しい意志が必要だ。例えば1年前副寮長としてトレイが名乗りを上げてくれたように。敗けてその縁よすがを失ってしまった時、自分からまた結びに行く覚悟が、今度こそトレイが永遠に離れていってしまわないという確信が、選挙戦当初のリドルにはなかった。
でも、オーバーブロットや選挙戦を乗り越えた今は、違う。
「もしも誰にも望まれなくて、寮長と副寮長ではいられなくなったとしても——キミだけは、ボクを望み続けていてほしいんだ」
結局勝ったのだから、なあなあに済ませて今まで通りでいることもできるだろう。けれど、リドルは変わらなければならない。変化し続けることを誰にも止められない。
リドルはトレイの寮服をぎゅっと、祈るように握りしめる。
「ボクも、大好きなキミを求め続けているから」
「……!」
そう上目遣いに言って微笑んだリドルの唇に、トレイは唇を重ねた。保健室での躊躇いは、大勢のなかで名指しされたことでどこかへ行ってしまったらしい。離れていた間を埋めるように、ただただ唇で長時間触れ続けていた。数分にも、数日間にも数年にも感じられるような長い口づけをして——やっと解放する。
「っ、トレイ……! 苦しいよ……」
「悪い——嫌だったか?」
「い、嫌じゃない……というか、その、嬉しい、けど……」
火照るリドルの頬を手のひらで包んで、トレイはもう一度キスをする。
ああ、俺だけの薔薇が咲いた——そう思いながら、きつくリドルを抱き締めた。