ツイステッドワンダーランド/トレイ・クローバー×リドル・ローズハート
2023年5月13日ワンライ参加作品 お題「靄」「別れ話」
窓の外、薔薇の迷路に立ち込める朝靄の中に飛び込んで失踪してしまいたい。これから自分がしなければいけないことを考えると。行動の一つ一つが重かった。トレイの腕の中を抜け出すことも、日課のアイロンがけも、暖かいシャツに袖を通すことも、一つ一つの動作が、終わらなければいいと思っていた。けれどリドルの身体は、染み付いた行動をきびきびと済ませてしまう。どんなに嫌で、気が進まなくても、やるべきことをやれてしまう。本来リドルはそういう性分のはずだった。けれど昨夜、言うべきことを言わず、今日まで先延ばしにしてしまったからこんなにも気が重いのだと、リドルは自分を責めた。
モーニングルーティンをこなすことは、まるでこれからすることが降って沸いた災難ではなく、日々の延長の中にある一つの選択であることを強調するようだった。トレイはまだ寝息を立てている。それを起こすのも、いつもの日曜日を始める手続きだった。……それも、今日で最後になるだろう。
「トレイ、起きて」
「ん……」
眼鏡をかけていない寝起きのほんの少しの不機嫌さも、髭がぽつぽつと生えた顎も、付き合い始めて知った部分だ。そうした細々とした愛おしい部分を、これまで大事にできていただろうか。手放すのが惜しくなった自分を律するように、リドルはデスクの椅子から声をかけ続けた。
「ああ、おはよう、リドル……」
「別れよう」
おはよう、の代わりに突きつけられた言葉に、トレイの眠気は一瞬で吹き飛んだ。
「……ちゃんと説明してくれないか? あまりにも突然で……昨日の夜だって……」
「ボクたちの関係が、お母様に発覚した」
「……!」
リドルがひっそりとつけていた日記が、丁度ホリデー中に最後のページに到達した。それを実家の部屋に隠して寮へと戻ったのが、ローズハート夫人に発見されたという。そこには、オーバーブロットをきっかけにトレイと交際をはじめたことも記されていた。
「昨日、電話で問いただされたんだ。だから本当は、昨日のうちに言うべきだった。元の寮長と副寮長の関係に戻ろう。——本当に、ごめん」
「……お前はそれでいいのか?」
優しげに口角を上げようとしても、その声は硬い。『問いかける』と『問い詰める』の間のような声色で促すと、リドルはうつむいて辛いんだ、とこぼした。それまで必死に平静を装っていた声は、震えている。
「お母様に怒られるようなことをしていたんだ、と思った瞬間から、キミと過ごして楽しかったことの全てが、罪のように思えて。そんなはずはないんだってキミはたくさん教えてくれたのに」
「いや、お前にとってあの人がどんなに強い存在か、わかるよ」
板挟みの恐慌の中で、リドルは未知の領域から逃げ、かつていた領域へと逆戻りしようとしている。すなわち、トレイと探る未来から、母親に支配されていた過去へ。そういうことなのだろうと推察したトレイは、逃がすまいとするようにリドルの両手を取った。床に膝をついて、見上げたリドルの瞳は凪いでいた。
「何度でも言わせてくれ。罪なんかじゃない。罪だとしても、罪を犯さない人間なんていないよ。お前はそのままでいいんだ、リドル」
「……ありがとう、トレイ。キミを好きになったことは、やっぱり後悔していないよ」
でも、と続けたその眉が意思を持ってキッと上がったのを見て、トレイは『あ、これそういうんじゃないな……』と悟った。
「お母様のことは抜きにしても、最近のボクはキミとの……その……行為にのめり込み過ぎていると思ったんだ。それなのに、昨日部屋に来てくれたキミを追い返せなくて。ボクは本当に意思が弱くなってしまったんだ。これでは……こんなボクではダメなんだ!」
これでは寮生たちに示しがつかない。だから、ちゃんとした元の寮長と副寮長に戻ろう、とリドルは繰り返した。これまで何百何千と寮生たちを裁いてきた業が、跳ね返ってリドルを、ひいてはトレイを責め苛んでいた。
距離を置くだけでいいのではないか、別れる必要はないのではないか。そう食い下がったところで、もうリドルを説き伏せることは困難だろう。そして何より、トレイはリドルのそういう意思の強さも愛していた。
「わかった、別れよう」
「……本当に、ごめん」
そんなに痛切な顔をするなら別れ話なんてするな、と思わなかったのは、リドルの気持ちが他の誰かに向いたわけではないという安堵の気持ちがあったからだろう。
「ただし、どちらかがそうしたくなったらすぐに寄りを戻そう」
「そんな意思の弱いこと……!」
「まあまあ、世間一般のカップルではよくある話だろ? 少なくとも俺は、しばらくリドルのこと諦められそうにないよ」
最後にとキスをねだる。本当の最後にする気はなかったが。一時だとしても二人が交わった日々は消えはしない——そんな過去の輝きにしがみついて生きていく気はトレイにはなかった。何度でも何度でも、リドルに拒絶されない限りは取り戻すと心に決めている。とりあえず今回は、ローズハート夫人のほとぼりが冷めるまでの間の辛抱だ。
外はもうずっと明るくなって、靄はもう晴れている。二人が寄りを戻すのは、この三日後のことである。