光と歌と、起きていて - 2/3

「ローリィ、入ってもいーい?」

何度かノックをするが、返事はない。ドアの向こうからは押し殺したすすり泣きがかすかに聴こえてくる。

「……オレはしばらくここにいるからね」

ケイトはドアにもたれて腰を下ろした。そうしてじっと黙って、ただそこにいた。やがて背中に感じていたドアの感触が消える。ドアが内側へと開いていた。少年は抱えた膝に顔を埋めている。おそらくは、無意識に魔法でドアを開いてケイトを部屋へと招き入れていた。そうして欲しいと、願っていたから。

「っ、ごめ、そんな、そんなこと、僕——」

「……」

ごめん、そんなことを言いたかったんじゃないのに、違うのに、怒りたくないのに、傷つけたくないのに——ひくひくとしゃくりあげる息に遮られる言葉に、ケイトは黙って耳を傾け続ける。隣に腰を下ろして、「そうだよね」と赤毛の頭を抱き寄せた。

「最近ずっと頑張ってるんでしょ? そりゃ、いっぱいいっぱいになっちゃうよ」

「でも、それは、妹に酷いことを言っていい理由には、ならないよ」

「うんうん、キミだって本当はイーディに怒りたかったんじゃないでしょ?」

落ち着いてゆっくり言葉と一緒に呼吸をさせる。客観的に見れば些細なことで過剰な反応をしてしまったとロランは頭では理解していたし、だからこそ動揺しているのだとケイトにはわかっていた。

「聞かせて、君が本当は何に怒ってるのか」

「怒ってなんか、ないよ、怒りたくなんか、ないんだってば……!」

「ローリィ……」

トレイの優しさとリドルの真面目さが、あるいはトレイの日和見とリドルの厳格さが合わさるとこんなにも不安定な爆弾になってしまうのか、とケイトはひっそり思った。そんな両親という環境から受け継いだ資質のようなものがあるとしても、それを抱えて生きていくのは彼自身だ。むしろ家というクローズドな場所で一度爆発しておいてかえってよかったかもしれない。この経験から己を抑圧しすぎない術を得られるのなら……の話だが。現時点では、他者を傷つけ、自分をも傷つけているだけだ。

「怒りたくないなら、なおさら自分の内側をよく見てあげなきゃ、だよ」

ケイトはロランに向き直ると、優しい低い声で告げた。

「例えば君の魔力は、目に見えないけど君の中にあるよね」

「……うん」

「無いって言い張れば、無くなると思う? 制御しなくてもよくなると思う?」

「……そんなわけ、ないよ」

それと同じ、とケイトはロランの胸を人差し指で軽くつついた。

「心の中にあるものを無いように扱いすぎると、自分でも見失っちゃって、思いもよらないところで爆発するから、ね」

人差し指をそっと遠ざけていく。ロランの胸から引き出して見えるように、魔法で指の先に淡い光を灯した。

「怒りだけじゃないよ。楽しくないことでも、君が生きて感じること全部、もっと大事にしてあげて」

指先の魔法を、様々な色に光らせる。それを見つめるロランはまだ泣いていたが、すっかり呼吸は落ち着いていた。

「——オレが仕事で引っ越しちゃってから、最近はあんまり話せてなかったよね」

話をしてよ、と言ってケイトはにっこりとロランに笑いかけた。

「君がどう思ってるのか、聞かせて。いや、どうしても聞かれたくないなら、それでも全然いいんだけど。とにかく、一度外に出してあげることが大事だと思うよ。それに、覚えていて。キミがどんなことを考えたり思ったとしても、オレたちはキミの傍にいるよ」

無理矢理にこじ開けて見えるものは、彼の本心などではない。彼の本心を見つめる必要があるのは彼自身であって、ケイトではない。じゃあ、と再び立ち上がろうとしたケイトの手を、「待って、」とロランは掴んだ。それから長い長い時間をかけて、やっとぽつぽつと語り始める。

「……お姉ちゃんが、怖かった。何考えてるのかわからなくて、いつも自信満々で、いつも好き勝手してて、パパとお父様に怒られてて、なのにいつも、何をしても一番で……。『あの人の弟』って期待されるのもガッカリされるのも、嫌なんだ……。なのに僕がお姉ちゃんよりも得意なのは、“いい子でいる”ことだけだ」

「……うん」

「だから頑張るしかなくてそうしてたら、いつの間にか生徒代表をやることになってて……。生徒代表も、お姉ちゃんがやってたからやりたくなかった。クラスの子達の仲裁をしたり、すごいねって言われたりする度に僕はまずすごく恥ずかしくなって、その後無性に腹が立つんだ。こんな程度でそんなこと言わないでほしい、君たちだってやればできるのに、って」

「……そっかあ……」

「イーディにイライラしてるのも、本当だよ。なんで、どうしてあんなに平気でへらへら過ごせてるんだろう。パパもお父様も強く言わないから、僕ばっかり心配してる……。ううん、僕のは心配じゃなくて……でも心配も嘘じゃなくて……僕は……」

「……大丈夫、大丈夫だよ。どっちも嘘じゃなくても」

「パパとお父様のことも……複雑な気持ちがあって……。愛されてるって、疑ったことない。すごい人たちだなっていつも尊敬してる。でもたまにすごく、すごく不安になるんだ。僕はこの人たちの子供で本当に大丈夫なのかな、って。僕は……この家の中で、一人だけ普通すぎる、浮いている、気がして」

「……それだけは、大丈夫だよ」

ケイトはロランを抱きしめた。話しながらもまだ流れ続ける涙を肩に感じながら、腕の中の存在が昔よりも遥かに大きくなっていることを確かめていた。

「キミが誰も傷つけないために頑張って見せないようにしてきたこと、教えてくれてありがとう」

それは彼に必要な言葉を新しく見つけ出したようで、どこか自分がかけて欲しかった、胸の奥にずっと保管しておいた言葉のようだった。

「……まだ誰にも言ってないこと、あるよ」

ロランは振り絞るような声でそう言った。今はケイトの胸に額を押し当てていて、その表情はうかがえない。

「ケーくん、どうして行ってしまったの? ケーくんがいなくなって、ずっと寂しかった」

「それは——」

仕事のためだった。

フリーのライターだった頃、ケイトは頻繁にこの家に泊まりに来ていた、というよりは半分以上この家に住んでいるようなものだった。いつしかここが、自分の得た居場所なのだと実感するようになっていた。新しいWebメディアを立ち上げる誘いが来た時、勿論悩んだ。そのためには輝石の国に移らねばならなかったからだ。最終的にそれを選んだのは自分で、まるで降ってわいた天災のように語ることはできなかった。

「……オレもね、ずっとここにいたいなって思ってたよ。でも、新しくて楽しいものや映えるものをピックアップするメディアを作ろうっていう誘いが来て、すっごくワクワクしたのも本当。どうしよっかな、って悩んでたら、トレイがあっさり言ったんだ。『行けばいいだろ』って」

「……パパがケーくんを追い出したの!?」

「違う違う! 続きがあるから! 『ダメだったらいつでも戻ってくればいい』ってさ。リドルくんも当然みたいに笑ってて。オレ、ここに帰ってきていいんだ——って思えたから、行くことに決めたんだよ」

「……部屋はなくなっちゃったのに」

「でも、待っててくれる人はいるよ。そうでしょ?」

ロランは顔を上げて、ケイトのにっこりとした笑顔を見た。

「ロランも、ケーくんと一緒に来る?」

「えっ?」

その提案は、ロランにとっては思いがけないものだった。ケイトは笑顔のままだったが、気休めの冗談ではない、真剣さがあった。

「もし今の君の周りの環境をどうしても変えたいなら、オレからご両親に頼んであげる」

姉妹から、親から、友人から、生まれ育った土地から。離れることが、もしもロランにとって必要なものなら。ケイトは何だってするだろう。

でもね、と念を押しながらケイトは、深刻に笑みを消した。

「今の学校は転校しなくちゃいけないし、新しい学校も、いつまで同じかわからない。……オレが今いる編集部、ちょくちょく場所を変えるから……」

ケイトとロランの暮らしは、奇しくも少年期のケイトと似たものになるだろう。ケイト自身は一つところに留まれないことに辛さを感じたことがあるからこそ、これは突発的ではあっても生半可な提案ではなかった。

「まあ、ゆっくり考えてみてよ!」

「う、うん……」

ケイトはベッドサイドに置かれたCDに目を留めた。「“バッドガールズカヴン”? ローリィ、パンク聴くの?」空気と話題を、やや強引に切り替える。

ロランはひく、とひきつった笑いを浮かべた。

「ううん、全然。でも、今は好きな音楽を聴く気になれなくて」

「そういうこともあるよね……普段はどんなのが好き?」

「……アイドルが好きなんだ。キラキラしてて、よく見せようと頑張ってるから。ファンの期待に応えようとする姿に勇気をもらってる。でも……」

「……何かあったの?」

これまで話せる相手がいなかったのか、ロランは堰を切ったように、それがね! と喋り始めた。

「こっちも嫌な出来事ばっかりなんだ。リル・Gは魔法士資格詐称してたし、ルシトールはアンガーマネジメントのトレーナー殴っちゃうし、セブタイはメンバー全員違法魔法クローンだったし……」

「えーっ、一度にそんなに重なることあるんだ!?」

「ルシトールは元々問題を起こしがちだったからまだわかるとしても……。“良く見せる”ために、演出のために魔法士を搾取したり、メンバーを酷い環境に置いて使い捨ててたってことを考えると、なんだかモヤモヤして」

「そうだよね……」

ケイトはロランが上げたアイドルたちを検索し、宣材写真や音楽配信サイトのリストを眺めた。それで何かがわかるわけではないが、少しでも分かち合えるものがあればよかった。ロランはそれを覗き込む。心底恥じ入るような声で言った。

「いつもは、この顔やダンスを見れば、歌を聴いていれば元気になれるのに」

「好きなものがいつも自分を助けてくれるわけじゃないし、何かを好きでいることで、余計に辛くなっちゃうこともあるよね……」

最初の問題と似た話なのかもしれない、とケイトは思った。この子が家族や友達やケイトを想うほど苛立ちを募らせるのと同じで。

「好きじゃなくなれればいいのにな」

「無理にそうしなくてもいいんじゃないかな。大事なのは、キミの中の気持ちを捕まえて、切り分けることだよ。ぐちゃぐちゃに混ぜたカードを整えて、引いていくみたいに」

「難しいよ」

「もし辛かったら、少し休んでね。もしかしたら、その間にキミ以外が変化するかも」

「そうなのかな……」ロランは苦笑いした。

「でも久しぶりに、一番好きだった曲を聴いてみようかな」

「オレも聴きた~い! これ?」

「いやこれは……あっ」

千にも満たない再生数のその楽曲のアルバムアートワークでは、非の打ち所のない美青年たちが、少しよれた衣装で、森の中で微笑んでいる。それはグループ名こそ違っていたが、違法魔法クローン騒動で産まれた完全無欠の人造アイドルたちに違いなかった。

「同じグループ名は使えないし、全然PRもできてないけど……彼ら、再出発したんだね」

「……うん」

部屋の中に、王道のアイドルポップが優しく響く。軽薄で中身のない歌だが、聴き手の抱えているものを預かるためのスペースのようだった。長年沢山の音楽を聴いてきたケイトからすればチープな楽曲ではあったが、ケイトはそれを笑わなかった。真剣に耳を傾けている子供に、必要なものだとわかっていたから。