その日は前日深夜からしとしとと雨が降っていて、ささやかなガーデンパーティー形式の結婚式は開催が危ぶまれた。けれど予報通り午前中に雨は止み、ほんのりと曇っている中で式は執り行われた。夏の日差しがやわらいで丁度いいくらい、と新婚の片割れは言った。まったくもう、と呆れながらも、こういうところが好きなんだ、ともう片方が、ロランが微笑むのを見てトレイとリドルは心から安堵した。
「ロランはいい判断をしたね」
控え室代わりのガゼボで、まだ少し雨つゆを乗せた葉を見つめながらリドルは言った。公園の花たちは咲き誇っているが、コンサートの時期を終えて静かにおとなしく、貸し切って何かをするには絶好のタイミングだ。お気に入りの場所、お気に入りの時間を分かち合えるだけでなく、あの子に無い視点を与えて照らしてくれる人を選んだことへの賛辞だった。
「ロランの友達の顔も見られてよかったよ、スピーチもよかったよな」
「ああ、ロランの代のハーツラビュルの寮長の……」
ハチャメチャな学生時代のエピソードで彩られた友人代表のスピーチをつとめたのは、NRCで同じ寮だった友人だった。進学した当初ロランは、「みんな名門校に選ばれた自負があるから、僕一人が気負わなくてもいいみたい」と清々しく話してくれた。次第に苦笑や愚痴混じりになっていく近況報告で、彼が悩み、成長していくのを両親は知った。懐かしい場所を舞台にした話の中で何度も登場した友人たちに実際に出会い、その口から、別の側面から聞くエピソードは、トレイとリドルにとって何より楽しいものだった。陽気そうな青年が『お祝いの場なんだし、本当はもっといい話だけするべきなんだろうけど』と前置きをして、用意した原稿用紙を折り畳んでしまった。
『会ったばかりの高校一年の頃、俺は正直ロランのこと気にくわないヤツ、と思っていました。あそこに座ってるヤツ二人と俺と、同室四人中三人ギスギスしてしょっちゅう小競り合いしてたのに、ロランと来たらいつも、おい、何を“外側”にいるみたいな顔をしてるんだこのマジメ野郎は、と。そのくせ俺たちを放っておかない。やらかした時はいつも小言を言いながら後始末に付き合ってくれたし、煮詰まりすぎた時は間に入ってくれた。ついでに俺が寝過ごした時は起こしてくれたし、お茶会の調理班ではお前がいないと始まらないってくらい指揮を取ってくれた。お節介に手を伸ばしてくるくせに衝突を避けるロランにイライラして、なんだよ、そういうの寂しいじゃんかよ、とぶつかっていったこともあったよな。その時もかわされたけど……お前が怒るとメチャクチャ怖いってこと、今はもう知ってるからな! でも本当にここぞっていうところでしか怒らないから、その時も、俺たちがお茶会で使う大事な食器割っちゃって連帯責任で職人さんのところに行かされた時も、やっぱり怒らなかったよな……。あっ、列席してるハーツラビュルの大先輩の方、本当にスミマセン……。ちょっとしたことなんだけど、その時の出来事で印象に残ってることがあって。新しい食器、受け取るの本当にすごく大変で、帰り道丁重に運べよって言われてたのに、俺たちみんな疲れてて。帰りの列車で寝ちゃったんだよな。もう本当に最悪なんだけど。でもそんな時も、ロランは一人でずっと起きて、食器を抱えてて。その頃、俺たち三人は次期寮長の座をめぐってライバル状態で。食器が割れたのも俺が俺が! って競いあった結果で。つまりロランって、立場が何であろうと、自分が疲れてようと、その時その場で言うべきだと思ったことを言って、やるべきだと思ったことをやれるやつなんですよね。それで万事うまくいくわけじゃないけど、でもパートナーさんは大事な食器を、持ち方は違っても一緒に持ってくれる人みたいだから、きっと大丈夫だと、思ってます』
結婚式のスピーチとしてはかなりくだけた語り口で、そぐわない表現や余計な枝葉も多かった。それでも、彼がロランについて、宝物のような思い出と共に語るにはその言葉たちしかなかった。
「お前にとってはあまりよくないスピーチだったかもな?」
「いいや。ボクが寮長だったのはもうずっとずっと昔の話だし、若者たちの未熟さにいちいち目くじらを立てやしないよ」
若者たちは皆二次会に行ってしまって、会場は瞬く間に片付けられてしまって、残っているのは親世代の初老だけだ。
「あの子はしっかりしてるから、何も心配することはないって思っていたよ」
「いや、だからこそ思春期の頃は随分心配してただろ?」
「当時はね。でも今になって思えばあの子はボクらには弱いところを見せたくなかったみたいだから、ボクも見なかったふりをしたいんだ」
「……そうだな。俺たちには見せられなくても、他に頼れる人はいるみたいだしな」
リドルは公園の芝生や木々を眺めた。さっきまでそこに居た人々の影を、過去そのものを捉えようとするように。そこには誰もかれもがいた気がした。老いた眼のかすみと夏の日差しが見せた幻だったかもしれないとしても。リドルにとっては過去すべてだった。これまでの日々が、まるでこんな暖かい日に見る夢のように思えたとしても、それはリドルと、トレイの日々に、確かな質感を持って存在していた。
「あの頃のボクは……自分の母のようにならないようにと、そればかり気にしていたけれど。パートナーがキミで、頼れる友人がいて……そんな心配はいらなかったのかもしれない。ただ、あの子達との時間を楽しめばよかったのかも」
「じゃあ、子育てをもう一度やり直したいと思うか?」
「そうだね……。いや、ちょっと待って。運やタイミングが悪ければ誰か死んでいた場面がいくつかあるね。あれを繰り返すのはごめんだ」
「同感だな」
リドルは冗談めかして言ったが、トレイにはちゃんとわかっていた。ロランだけではない、他の子供たちも、そして自分たちも、今までの生を尊重したいのだ。
「……それで、ケイトはいつまで泣いているの?」
二人はしばらく肩を寄せあって目を細めていたが、顔を上げるとガゼボの反対側に目を向けた。ケイト・ダイヤモンドが泣きじゃくっている。ハンカチで口元を押さえて声を殺すようにしているが、押さえきれない嗚咽が漏れている。
「だって、だってぇ……」
「お前は特に感慨深いよな」
「あの子のこと、よく見ていてくれてありがとう」
二人は反対側へ移ると、ケイトの背中をよしよしとさすった。付添人の役目を勤め終えてからというもの、辺り一帯が海になってしまいそうなほど泣き続けている。ケイトもまた、これまでの日々を思い返していた。この家族の傍にいた時間も、離れながら想っていた時間も。子供たちの成長を見守ってきたこと。だが一番リフレインしているのは、さっきロランが誰にも聞こえないように打ち明けたことだ。よく似合う真白い晴れ姿に身を包んではにかみながら、彼はこう言った。
『結局、ケーくんのとこには行かなかったけど……いざとなったらケーくんのところに行こうって思ってたから、僕は大丈夫だったんだよ』
居場所をくれたこと。居場所になれたこと。ありがとう、とケイトは返したくなったが上手く声が出なかった。しかしトレイとリドルはうんうん、と頷いている。
「そろそろ行こう。段々暑くなってきたし……老人にはこの気温は毒だよ」
「そうだな。積もる話はうちで、取って置きのワインを飲みながらしよう。……エースとデュースは?」
「さっきまた騒ぎを起こしていたね。まったく若者に絡むなんて、年甲斐の無い……」
「まあ、こんな時くらいいいじゃないか。その辺にいるなら拾っていこう。酔いつぶれてないといいんだが」
トレイとリドルは両脇からケイトに肩を貸した。よっ、こい、しょ! と年波を感じさせる声を出しながら、立ち上がる。ガゼボの陰にもたれこんでいたエースとデュースが、へべれけに何かを口ずさんでいるのを発見すると、立ち上がらせて前を行かせた。
「そういえば、式のピアノ演奏もよかったな」
「ああ、確かお相手のご友人が演奏していたよね。演奏の腕前も素晴らしかったけれど、曲自体も美しかった。軽やかで、きらびやかで……」
「あれ、クラシックじゃないよな。何かのアレンジか?」
「ケイト、知ってるかい?」
ケイトは答える代わりに古い歌を口ずさむ。まだ呼吸が落ち着かず、不安定な息遣いで。
五人が歩き去る。少しの間歌が聴こえて、遠ざかっていく。後には、夏の木漏れ日だけが残った。