ミス・ジョージィは薄情 - 2/7

【2】

 

恐ろしいことが起きた。ああ、なんてこと!サマーホリデー前の返却していないレポートが出てきてしまったのだ。年度を跨ぐことはあるにしても、本来9月中には返却されていなければならない。そして今はウィンターホリデーの直前である。期末試験の採点が終わって、使っていた資料を引き出しにしまおうとして、偶然掘り起こされた昨年度の遺物たち。採点はしてあるのがせめてもの救いか。
年度を跨いで提出物を返却する時は、各寮長か副寮長に渡して代わりに返してもらうのが一般的だ。クラス替えや授業選択が変わってわたしとの接点がなくなっても、寮はそうそう変わらない。
タイミングの悪いことに、ハーツラビュルの寮長はついさっき、何度目かの不毛な面談を終えて帰ったところだった。さっき帰したところなのにまた呼び出すのはバツが悪い。十中八九、だらしない大人へ向ける軽蔑の視線を浴びるのも不愉快だ。どうも彼は大人に絶望して心を開かないというよりは、大人に期待しすぎているのではないかと思う。いるのよ、こんな大人だって。
そんな風に思っていたところ、職員室の反対側、1年生担任の島の辺りに赤い腕章と緑髪が見えた。ハーツラビュルは副寮長でいいか。むしろそっちの方が気が楽だ。

「あのぅ……クローバー? ちょっといいかしら」
「ああ、お久しぶりです、ミス・ジョージィ」
クルーウェルに部活でやる実験の計画書を提出しに来たらしいトレイ・クローバーが、職員室を出る間際に声をかける。生徒の顔と名前を覚えるのは苦手なのだが、彼は頬の上にクラブのスートが入っていてわかりやすい。そうでなきゃ、そつなく噛みつくところの少ないレポートを書いていた彼の顔を覚えていられない気がする。
「これ、返しておいてもらえる? あなたのもあるわよ」
「サマーホリデー前の魔法経済学のレポート? もう返ってこないかと」
「色々バタバタしてて……本当にごめんなさいねぇ」
本来なら最後の授業で返せるはずだったが自分の論文への焦りと、久しぶりに家族や恋人に会える浮かれで頭がいっぱいで完全にすっぽ抜けたことは伏せる。
「そういえば、足を怪我したって聞いたけど、大丈夫かしら?」
「うん? 先生、それかなり前です」
彼がマジフト大会前に階段から落ちたことを知ったのは、ローズハートとの初回の面談のずっと後のことだった。受け持ちでもない、授業も取っていない、顧問でもない、そんな風に接点の無くなった生徒の情報って同じ学校でも案外全然入ってこない。
そしてそれがローズハートを庇ってのことだったと知ったのは、更に後。そことこことが繋がらないままでは、もしかしてあの時彼はそのことについて気に病んでいたのだろうか、と思い至ることすらなかったかもしれない。
「ねーえ、あなたから見て、ローズハートってどんな子?」
「どんなって……幼馴染みですし、すごいやつだと思っていますよ。どうしてそんなことを?」
咄嗟に身を挺するほどの情は、寮長・副寮長や幼馴染みの枠を越えてはいないか。しかしそれは都合がいい。情をかけて踏み込むのは何も薄情なわたしじゃなくたっていい。
「ほら、9月に色々あったでしょう? 心配なのよ。担任としてね」
「……そういえば、定期的に面談をしているとか」
「そ。それでわたし、彼のお母様にお手紙で報告しないといけないんだけれど……どうにも話が弾まないから書き進められないのよねぇ」
授業では一対多なのではっきりと認識したことがなかったが、トレイ・クローバーからはほのかに甘い香りがした。砂糖や小麦、フルーツの匂いだ。一際目立つ香りは菫。顔を覚えるよりも、匂いを覚える方が楽なのは犬の獣人属の性か。それは薔薇の王国で菓子折りを買った店の匂いによく似ていた。あれ以来気に入ったので、たまに取り寄せている。面談の終わり際、必ず彼に一つ分け与えるのが慣例になっていた。今回はパステルカラーに彩られたドラジェの小箱を一つ。箱の曲面には、素朴なクローバーの意匠。
「——へえ? ローズハート夫人に?」
意図的に作っていたのだろう笑顔が消えた。わたしも作り笑いは得意だからお見通しだ。丁度同じ高さで目線がかち合う。
「会ったことある? 強烈よねぇ、あの人」
「……知ってます」
学園長曰く、オーバーブロット発生時、彼は果敢にローズハートを抑えたという。その話にしても、階段で身を投げ出した話にしても、正直ピンと来ないものがあった。しかし今、すうと細められた瞳には強い意志が灯る。
「わたしももうできる限りお会いしたくないわねぇ……だからなんとか当たり障りないお手紙を書きたいし、そのために彼には安らかに過ごして欲しいのよぉ——彼のこと、気にかけてもらえるかしら?」
「言われなくても」
クローバーはそう言って、またすぐに作り笑いで覆い隠した。淡白な普通の生徒だと思っていたけど、大きな感情を大事にしまい込んで隠しているだけなのかもしれない。それがどんなものであれ、ローズハートといい関係を築いて、オーバーブロットの再発を防いでくれるのならわたしは利用させてもらうだけだ。
「引き留めてごめんなさい。また今度、話を聞かせてちょうだいね」

クローバーが退出した後、会話を聞いていたらしいクルーウェルと目があった。
「サマーホリデー前のレポートってお前……」
「ああ、デイヴィス、お願いだからどうか、どーーーぉかトレイン先生には言わないで!」
茶化して大仰に人差し指を立てると、クルーウェルは呆れ顔で肩をすくめた。
「それよりも——あまり仔犬に仔犬の面倒を見させるなよ」
「……わかっているわ。でもあの子、元からでしょお? わたしは便乗しているだけよ」
「最近まで知らなかっただろうによく言うな。そうだとしても、クローバーに負担がかかるだけで利がない。教師としては、そんな関係を安易に奨励するようなことは言えないだろう」
負担というなら、大人の寮監も寮母もなしに、寮長が寮を取り仕切るのはどうなのよ、とは言わなかった。副寮長だって同じことだ。
「そうね——それはそうよ、でも……どうしてもやっぱりローズハートにはクローバーが必要なんだと思うの。あの子には同年代の子供との触れ合いが足りてないから、今大人が何か介入しても無駄よ。それに、せいぜい来年までのことじゃないの」
4年生になれば、クローバーは学外へ出る。その頃までには、ローズハートの人間関係ももう少し広がって、安定しているだろう。わたしの楽観的な考えに、クルーウェルはまだ納得していない様子だったが、結局はクローバーがどうしたいかだ、と呟いて話は終わった。

余談。その後、どこから耳に入ったのか、サマーホリデー前のレポートの件はトレインにバレて、わたしはコッテリと絞られた。