【5】
リドル、と声をかけてドアを開けると、サク、と軽い音が耳朶を打った。リドルの手にはハート型のパルミエ。4枚で1つのクローバーを象ったそれは、ひとひら欠けて歪な三つ葉になっていた。
俺の手にあるのは文化祭運営委員のレターボックスに届いた申請書類で、大まかに不備の無いものと、明らかな不備があって理由を添えてリジェクトされるものにより分けてある。一見不備の無い方も、リドルがしっかり目を通してサインをしてから正式に受理されることになっている。途中途中でイレギュラーな処理を挟むよりも、あらかじめ分けておいた方がやりやすいだろうという判断だ。
「今日は面談の日だったのか。ミス・ジョージィもすっかりお得意様だな」
ありがたいことではあるが、俺はあの女教師を警戒していた。あまりよくない噂もあることだし、リドルにだけ特別に与えられた菓子を見ているとチャイルドグルーミングという言葉がよぎる。
「……トレイ」
ありがとう、と受け取った2つの書類束をリドルはじっと見つめる。そして上目遣いで俺を見つめると、こう言った。
「何か欲しいものはあるかい」
「どうしたんだ急に」
「キミはいつも、色々な場面でボクを助けてくれるけれど……何一つ見返りを求めたことがないなって」
そんなことか。とっくに俺はもらっているさ。例えば、ノックもせずに私室に入ること。ソファとデスクが離れているのを口実にベッドに腰かけても咎められないこと。ベッドに書類や資料を広げながら、後頭部の丸みや頬のラインを見つめること。
でもそんな下心をあらわにしたら、きっとリドルは戸惑うだろう。怯えるかもしれないし、怒るかもしれない。俺が何より重んじる“リドルの平静”を脅かしうるのなら、自分の気持ちだって言う必要はないと思っていた。
「キミが誰彼構わず無私に尽くすような人間なら、それはそれで心配だけど、そうじゃないことはとっくにわかっているんだ」
例えば、とリドルは言葉を区切った。
「キミが以前入手してくれた、麓の町の有名なイチゴタルト。あれはキミが大切に育てていた苺をジェイドに譲った見返りだったそうだね」
「……誰から聞いた?」
「ジェイドからさ。それに以前、ジャミルがハーツラビュルの薔薇を剪定している所を見た。キミ、彼の料理を手伝ってあげたそうだね。……これは少し、対価が重すぎやしないかい?」
オクタヴィネルの寮長ほど悪辣ではないにしても、俺は誰かの頼みをおいそれと引き受けるようなただのお人好しではない。何かを求められればその分何かを求め返す。しかし、リドルのこととなってはその法則がねじ曲げられると気づかないほど、リドルも鈍感ではなかったようだ。
どうして、と問うリドルに、俺はいつもの文句で躱そうとする。副寮長としての役割を全うしているだけだと。あるいは幼馴染みだから気になるだけなんだと。
「ふ」
「副寮長の領分は明らかに越えているよね? キミが今日してくれたことは、ハーツラビュルの仕事じゃない」
「お」
「幼馴染みだからっていうのもなしだよ。親友のケイトにだってここまではしないだろう? 親友と幼馴染みのどちらが上とかではないとは思うけど」
「あー……」
言葉の逃げ道を塞がれた俺が腰を浮かすより前にスプリングが軋んで、俺のすぐ隣にリドルが腰かけていた。こんなことは今までなかった。いつもリドルは俺に背を向けたまま机の上で手を動かしているか、たまに振り返って椅子の背に肘を置くくらいだった。
そっと腕を掴まれて、物理的な逃げ道もなくなった。睫毛の本数すらわかりそうなほど近くでじいっと見つめられる。もうとっくに、何もかもわかっているような石色の瞳。けれどそのつんとした唇から出たのは、戸惑いを帯びた質問だった。
「トレイがボクにしているのは……エース達が言うように、甘やかしなのかな?」
「……甘やかしたら、ダメか?」
こうなりゃヤケだ、と開き直った心地で、逆に顔を近づけて見つめ返す。髪と同じ色の睫毛を伏せて、リドルは視線を逸らした。
「ダメかどうかで言ったら、ダメ、だろう。トレイだって忙しいのだから。でも、ボクが知りたいのは、それが甘やかしだったとして、キミがどうしてそうするかだ」
過程でも結果でもない、原因を知りたいとリドルは言う。腕を掴む手が震えて、力なく落ちた。
「もしも、キミがボクのことを、今にも爆発しそうな爆弾だと思ってそうするなら、それはボクが直すべき問題だし、そのためにはキミから離れなければならない」
「ちょっと待て」
ベッドから立ち、離れていこうとするリドルの両手首を正面から捕まえた。
爆弾。腫れ物。そういえばあの女教師は、リドルのことを扱いあぐねているようだったな、と思い出したのは、その細い手首を掴んだ後だった。最後に“情報提供”したのはホリデー前だが、あれと一緒にされるなんてたまったもんじゃない。それとも、ジェイドと麓の町のイチゴタルトの話をしたなら、俺がどんな風に語ったのかまで聞いたのか。
「勿論、リドルが平静でいられるように、っていうのはある。けど、それは——」
「……トレイは、大人だね」
「……は?」
今必死に、お前を逃がすまいとしているのが大人なものかよ。どう言えば伝わるのか、言葉が見つからなくて途方にくれているのに。
あれが本心じゃない、とまでは言えない。事無かれ主義の自覚だってある。俺はリドルに平穏でいてほしい。けれど、本当にそれだけかと言われると、リドルを怯えさせない言い方をするのは難しい。それこそ俺は無私じゃない、我欲まみれだ。何が大人なものか!
「大人が甘やかす筋合いのある大人は恋人だけ、らしい。それはきっと大人同士なら双方向にできるからだと思うんだ。ボクは……キミを甘やかすには子供で……キミと、大人と子供の関係ではいたくないんだ」
リドルがもう少し大人だったなら、甘やかし合える恋人同士になりたいと。そう受け取るのは早計だろうか。ゆくゆくはそうなれたらいいだろう。でも、だからといって今離れなきゃいけないとは思えない。
「……俺はお前が言うほど大人じゃないんだ。まだまだ未熟な普通の18歳なんだよ」
子供が子供の面倒を見ることが罪だというのなら、ずっとそうするのが当たり前だった俺は一体どうなんだ。
俺はリドルの手を離すことができない。今この手を離したら、俺の魂の根幹がもげてしまう、とすら思った。
そんなに寂しそうな目をしているくせに、俺から離れようとなんてするな。俺は乱暴にリドルをかき抱いた。ガキ同士でくっつき合って寂しさを埋めたっていいじゃないか。
「トレイッ……!?」
「ああ、クソッ……」
どうすればいい。もう手札は無い。きつく抱き締めた腕の中でリドルが、離して、ともがくから、嫌だ、絶対に嫌だと駄々をこねるみたいに呻く。
いつもなら自然に嘘をつけるこの舌を、今すぐリドルの口にねじ込みたい。いやいっそ、そうするしかないのか。そこまでしないと伝わらないのか。
俺はリドルの唇にかぶりついて、子供と子供のキスをした。