話し合いのために子供を遠ざけて正解だった。子育てに向いていない人間同士の軽微なすれ違いや鬱屈をぶつけ合っているうちに、どんどん空気が険悪になっていく。
「戦況がまた激化したことを、どうして黙っていた?」
ウァレフォルはイポスを睨んだ。軍団に復帰したがるウァレフォルに、イポスは何度もまだ早いと苦言を呈した。それは子供のことを思ってのことだったが、ウァレフォルもまた、子供のことを思えばこそ、戦線に復帰したいと思っていた。子供が生きるヴァイガルドの危機は去っていない。ならば、戦わなければ。だというのに遠ざけられるばかりで、腕が鈍る焦燥感に駆られていた。
「結局貴様は、私を同じものを守る仲間として扱っていないじゃないか」
「そんなことはねえ、言いがかりだ」
「ならどうして、情報を遮断した!?」
定期的に検診をしてくれる医療班は、戦況のことはあまり語らない。情報をもたらしてくれていたのは、グレモリーやソロモンだった。どんなに忙しくても、グレモリーは必ず所領に戻ってくる。その際直接会って情報を受け取っていたのだが、子供が産まれた直後くらいから途絶えていた。その際にも戦況の変化を案じてはいたが、実際に領民たちが『領主様が長らく留守にしている』と騒ぎだしたのは、つい最近のことだ。一方その約二年もの間も、ソロモンとは手紙でやり取りをしていた。しかし、思いがけない形でその齟齬が明るみに出た。
「……戦況のこと、誰から聞いた?」
「ゼパルからだ。ソロモンの使いでここを訪ねてきて、驚いていたよ」
彼女は子供の姿を見て色めき立った。
『すっごく久しぶり! 元気そうで良かった~! 確かにこ~んなかわいい子がいたら離れられないよねえ~! ダンナさんはっ!? どんな人なの!?』
『……そちらの方は、どうなっている?』
『それがもうっ、大変でさぁ~!』
そこでこれまでの状況を擦り合わせるうちにやっと、手紙の内容が編集されていることに気がついた。手紙は、イポスを介していた。
「私も勘が鈍ったものだ……こうも気付かんとはな……」
「大変だったんだぜ、大将の字を真似るのは」
「この期に及んでふざけるな! グレモリーを遠ざけたのも貴様だろう!」
声を荒げたウァレフォルに、イポスは笑みを無くす。
「……しょうがねえだろ……」
いざ子供が産まれてみると、子に乳をやるウァレフォルをこれまでと同じ目では見られなくなってしまった。あれほど大きな傷をつけた好敵手は、共に並び立って剣を振るった仲間はいなくなってしまって、守るべきヴィータの女が、別の生き物がそこにいるような気がしていた。イポスはヴァイガルドやヴィータを守る。ウァレフォルは目の前の子供だけを守る。それが一番いいと、思い込んでしまっていた。
「復帰するとして、あいつはどうする? 預けるあてはあるのか」
「孤児院に預ける」
「手放すのか?」
「戦況によっては……やむをえん」
ウァレフォルは深くため息をつく。土台無理な話だったのかもしれない。ヴィータを、育てるなど。
乳幼児と一緒にいることは、ウァレフォルを狂気の入り口に立たせた。子供の生命が脅かされると身体が勝手に動く。そして何事もなければ安堵するし、かわいいと感じることもある。けれど、一方で殺してしまいたくなる時もある。稀によぎる殺意が、他の感情との折り合いを阻んでいた。それはまるで、ヴィータの社会に溶け込んで生きながら、どこか己をヴィータの輪から外して考えてしまう齟齬をウァレフォルに突きつけるようでもあった。育ての親がしてくれたように、その場で子供が生き延びられるよう手を尽くしたいと思っていた。けれど、比較的平和な土地に隠れて、戦場や裏社会の影のないところで子供を育てるとなると、自分が子供に対してできることの何もかもが間違っているように思えた。子供と向き合うことの全てが苦痛だったわけではい。しかし、時折イポスが訪れる以外は起伏のない閉じた生活は、ウァレフォルの心を少しずつ蝕んでいった。
「そもそもあいつは——もっと真っ当なヴィータのところにいるべきだったんだ」
こんなところに産まれてくるべきではなかった。もっと子供にとっていいところがあるはずだ、と訴えるウァレフォルを、イポスは逃がさなかった。
「お前の思う真っ当なヴィータとやらが何だかわからんが、お前は自分がヴィータでもあるってことを忘れてるんじゃないか? お前が復帰したいと思うのはいい。だが、あいつのためみたいな言い方はよしな」
「貴様に何がわかる……!」
「わかってないのはお前の方だ。お前もヴィータだってこと、思い出させてやろうか?」
その目付きに、ウァレフォルは背筋が寒くなる。冷酷さと熱烈さの両方を含んだ視線で、こちらを射抜いている。
「——もう一度力ずくで、復帰できないようにしてやろうか?」
「ッ……! やってみろッ!」
詰め寄られて、ウァレフォルは部屋の隅に立てかけられていた剣をとった。イポスも剣を抜く。
狭い家の中で、ウァレフォルは家具を倒しながら飛び退って間合いを取る。じりじりとした睨み合いの果てに、イポスの突きが、胴をかすめた。当たりはしなかったが、昔とは違い、ひらめいた服の布地を貫いてウァレフォルを壁に縫い留める。自分で引き裂いて逃れるか——いや、ウァレフォルの剣は二振りともがっちりと鞘に納められている。子供がいたずらをして怪我することがないように。
「くそっ……!」
「ぐっ……!」
代わりに手からレイピアを叩き落とそうと、ウァレフォルは何度も剣を振り下ろす。イポスはなかなかレイピアを落とさない。反対側の剣で思い切り頭を打ったのは少しは効いたようだが、切れない剣に臆することはないとばかりに、イポスはじりじりとにじり寄ってくる。レイピアの剣先が服を胴から裾まで一気に切り裂いて、しめた、とばかりに逃げ出そうとしたウァレフォルに、イポスは足払いをかけた。床に倒れ伏したところを、馬乗りになって捕まえる。
「この分じゃ、復帰は難しいんじゃねえか?」
残忍に笑ったイポスに口を塞がれながら、ウァレフォルは強く屈辱を感じていた。イポスに対してだけじゃない。こんなわずかな戦闘に高揚してしまう己に。それは、最悪の夜だった。だが、その最悪を手放せない。ヴィータ同士でする行為のはずなのに、溺れれば溺れるほど、本来求めるべきものとは違うものを求めてもがいてしまう。酸欠の中でウァレフォルは、より一層決意を強くする。
(最終的には暴力でしか語り合えない連中のところに、子供を置くべきじゃない)