現実というものはそうなってほしくない方向にばかり転がっていく。険悪な状態を続けて数か月後、また懐胎した、と気がついた時、ウァレフォルはイポスを強く恨んだ。それでも、やはり堕胎する気にはなれなかった。二度目ともなれば『ヴィータが産まれてくる』という実感が強くあって、それを殺してしまうことのように思えてならなかったのだ。
乳離れしたら上の子ともどもすぐに孤児院に託す。既に話はつけてある。今度こそ絶対に復帰する。貴様とはもうそれきりだ、とウァレフォルはイポスに告げた。別れ話のような言い回しになってしまったが、別れ話ではない。はじめから、結びついていたものなど何もない。子供は今日は預けられず、すやすやと眠っている。もう荒事を起こすつもりすらなかった。荒事でしか語り合えない関係なのに。
「何度も言ってるが、復帰なんざできるのかよ」
「少しずつ感覚と身体を取り戻していくさ。二人目なんだ、多少勝手はわかっている」
イポスを見据えるその瞳には、有無を言わせない強い意志があった。そこにはもうけして心を許さない、という鋭さが宿っていて、かつて切り結んだ時のことを思い出させた。価値ある敵としてのウァレフォルを久しぶりに見た、と思えば、もうおしとどめることはできなかった。
「結局、それが一番マシな選択肢……か」
「ああ。私たちがこいつらにできる一番いいことは……関わらないことだ」
外は雷雨で、最初に産むかどうかの話し合いをした時の天気に似ていた。一際強く轟音が鳴って子供が泣きながら目を覚ましてしまう。
「やれやれ、折角よく寝ていたのにな」
「おかあしゃ! こわい!」
ぐずる子供を抱き上げて、窓辺に立つ。ぴか、と遠くが光るのを二人で見てから、音がなる前に子供の耳を柔らかく塞いでやる。
「いいか、光ってから音が鳴るんだ。わかっていれば怖くはないだろう?」
「う……」
「光ってから音が鳴るまでが長いほど、遠くに落ちているんだ。ここは安全だよ」
「……きゃ! や! やぁ! おとしゃ~!」
何度か雷光を見つめたが、子供には納得しかねたようで、もう嫌だと暴れて降ろさせると、父親の方へ一目散に駆けていく。
「くくく、そんなこと言われてもわからんだろ、まだ」
「おとしゃ、いる~!」
「おお、いるぜ。今日はな」
足元にまとわりついた子供をイポスは抱き上げる。仕事から直行したため、服の下には鎖を着込んでいて、子供にとっては硬い抱擁だった。それでも気にすることなく、子供はぎゅっとイポスに抱きついて雷に怯える。たまにしか訪れない存在でも、むしろたまにしか訪れないからこそ、子供はイポスによく懐いていた。
「こわい~……」
「ああ、怖いよなあ? 怖がってるもんを見せることねえだろうになあ?」
「目で見た方が怖くなくなると思ったんだが……」
ある程度考えがしっかりしてきた年齢の子供ならまだしも、まだ身体や言葉や思考の使い方を知らない子供に対して、ウァレフォルは不器用だった。対してイポスは柔軟で、本来突き放す厳しさも持ち合わせてはいるが、今はただ受け止める優しさだけを発揮していた。
受け止められた腕の中で、もう怖いことはないのだと、子供は目を閉じる。これから長い別れが待っているとも知らず、両親の様々な面を見ていくこともなかった。
***
戦いが落ち着いても幻獣は依然としてヴァイガルドに蔓延っている。それを狩るためライヒ領を訪れ、その過程で偶然保護した少女は、赤子の時に手放した二番目の娘だった。それを送り届けた先で一番目の娘と約十年ぶりに対峙してしまい、ウァレフォルは己の運命を呪う。娘は、冷めた目つきでウァレフォルを見上げた。
「……久しぶり、”お母さん”」
「……覚えていたのか」
「少しずつ、思い出してたの。だってイポス……“お父さん”、他人みたいな顔して真正面から来るんだもの」
「二、三年も経てば忘れてくれてると思ったんだがなぁ」
「あの子も段々お父さんに似てくるし、嫌でも思い出すよ」
通う場所が隠れ家から孤児院へ変わっただけで、イポスのなすべきことはほとんど変わらなかった。じとりと睨まれて尚ひひひ、と平然と笑う。
「お母さんはお母さんで、領主様のところにたまにこっそり来てたでしょ。剣を習い始めてから、たまに見かけてたよ」
「……」
孤児院への援助をグレモリー経由で届けていた時のことを指摘され、ウァレフォルはきまり悪そうに目を逸らした。
「本当にどうして忘れていられたんだか……」
大きな男の人たちがたくさんいる所に預けられたことも。注射を打ってくれた看護師さんとお医者さんが怖かったことも。お母さんが抱っこしてくれた時に編んだ髪を引っ張っていたことも。羽つきの帽子で遊んでいたら取り上げられたことも。全部全部思い出した。少女は堰を切ったように記憶を語った。
「お母さんが私とあの子をここへ連れてきて、院長室で待たされて。……それきりだった。それきり二人は、私のお父さんとお母さんじゃなくなった」
戻らない過去を語るうちに俯いていた顔を、少女はキッと上げる。そして二人を詰った。
「どうして他人のふりをしたの。どうして会いに来てくれなかったの、どうして……」
「私みたいなのが寄り付くわけにはいかないだろう……」
「ああ、いない方がいい親ってのもいるのさ……」
「そんなの知るか!!」
まだ13歳かそこらでしかない少女は、感情を露にした。妹の前では大人ぶっていても、抑え込んでいたものをぶつけられる相手が現れると、もう歯止めはかけられなかった。それをイポスとウァレフォルは、甘んじて受ける。
「……すまなかった、本当に——」
「ああ、何度謝っても足りんだろうが——」
「馬鹿! 二人とも絶対一生許さない! 育てるのも捨てるのも会いに来るのもずっとバラバラだったんだから、恨まれるのくらい一緒にやってよ!」
「…………」
「……そうだな」
でも一つだけ……と少女は孤児院の方を振り向く。二人の手を離れてから過ごしてきた日々全てを見つめるように。
「あの子を……妹をありがとう」
あの子がいたから、私は……と震える声に、イポスとウァレフォルは少女なりの戦いを見てとった。その成長途中の背中でどれほどのものを背負ってきたのだろう。誰かから受け継いだものではない、彼女自身の日々の中で培ってきた強さがそこにはあった。
「来るのはいいけど、もう二度と、私やあの子の前で父親面や母親面はしないで」
これからどうしてほしい、と尋ねると少女はそう答えた。すっかり気丈な声と目つきを取り戻して。
「……さよなら。イポス、ウァレフォル。……またね」
「……ああ」
孤児院の方へ去っていく後ろ姿を見送って、無言のままに二人は別れた。
イポスとウァレフォルにとっては、彼女らの誕生は過ちや関係を決定的に破綻させた出来事ではあった。だがそれはイポスとウァレフォルとの間のことで、彼女たち自身には関係がない。彼女たちはただ、生き続ける。そこにはイポスやウァレフォルには手の届かない強さがある。ただそのことだけを考えていた。
***
「……よお、久しぶりだな」
「……」
強い雷雨で足どめをくらい、仕方なく酒場で夜を越そうと向かうとイポスと鉢合わせした。つくづく縁がありすぎるな、とウァレフォルは頭を抱える。もっとも、このライヒ領に自然と足が向いてしまうのはお互い仕方のないことかもしれないが。
「あいつらはもういないぜ。数日前に発ったってよ」
「知ってるさ。剣を贈ったんだって? 父親ぶるなと言われたくせに……」
「それくらいの餞別は構わんだろ? 仕事で使ってりゃ、実際消耗品だしな」
「私だって何かくれてやりたかったが、弁えたんだぞ。あいつらを実際に育ててくれた人達にも申し訳が立たないだろうが。まったく、面の皮の厚いやつだ……」
「まあ、そこまで極端にならなくてもいいじゃねえか」
子供らに対してだけではない。ウァレフォルが軍団に復帰したあと距離を取りつつも素知らぬ顔で並び立ったのも、今こうしてウァレフォルに声をかけてくるのもそうだった。その神経の太さに辟易しながらも、ウァレフォルはカウンターの隣にかけてしまう。
恋人であったことも、夫婦であったこともない。同じ子供の親にもなれなかった。強いて言えば今でも仲間で、好敵手ではある。でもそれだけとも言い切れない未定義な繋がりが、二人の間にはあった。それについては未定義なままで、お互いのこと、子供らのことなど、来し方を語り合ってもいいかもしれない。結局、繋がることができなかったから、完全に切ることもできない縁なのだろう。
何から話そう、と思いを巡らせたその時、ウァレフォルの分の酒杯が運ばれてきた。イポスが飲みかけの杯を軽く掲げる。
「何に乾杯する?」
「そうだな……。雨と、雷に」