観測
水筒から注いだハーブティーが冷めていなくて安心した。湯気がシナモンとジンジャーの香りを含んで広がる。インナーを着て、セーターを着て、一番厚いコートを着て、マフラーを巻いて。十分に厚着をしていても、冬の夜の澄んだ空気は肌を刺す。
ウィンターホリデーの終わり際、示しあわせて早めに学園へと戻ってきた。そんなのは少数派で、寮内に人はまばら。学内とは言えまだホリデー期間中、目を光らせる必要もない。寮内にいる面子も、自習や部活に打ち込むような真面目な生徒たちばかり。問題を起こしがちなエースやデュースにしても、オンボロ寮やなぜかスカラビア寮で、ほどほどに楽しく過ごしている。
なあなあで済ませても良さそうなところを、リドルは律儀にも外出届を書いて学園長に提出してきた。そうした几帳面さも、あと半年もすれば見られなくなると思うと、少しでも多く思い出を残したくて。この天体観測に誘った。
ドワーフ鉱山の開けた土地にマットを敷いて、並んで座る。少しの体温も逃さぬよう、寄り添ってブランケットにくるまった。
「月が明るすぎる。本当に流星群が見られるの?」
「早く来すぎたな。沈んだら起こしてやるから、仮眠してていいぞ」
「仮眠はしっかりしてきたよ。キミは? 準備を任せてしまったから、眠れていないんじゃない?」
「いきなり誘ったんだ、俺が準備するのは当然だろ? じゃあ、おやつでも食べながら月が沈むのを待つか」
保存容器から取り出したクッキーは、こちらもシナモンとジンジャー、ついでにオレンジピールがしっかりと練り込まれている。リドルの身体を内から暖めるように。
「流星以外にも見所はあるんだ。今日は月と他の惑星がすごく近づく日らしい」
「へえ、あれが……」
ツイステッドワンダーランドから見える月は眩しく大きすぎて、他の星は霞みそうなほど小さく見える。だからこそ、見つけ出す価値のある光だった。
反射して光る赤い星を、サイエンス部の備品の双眼鏡越しになんとか捉える。周囲の星座も、専門ではないので少しつっかえながらも説明してやると、リドルは静かに耳を傾けていた。
西の地平線へゆっくりと降りていく月を見送る。その光だけがある夜の闇にも慣れてきた。自分の双眼鏡をおろしてリドルの横顔を眺めていると自然と言葉がこぼれ落ちた。
「……リドルみたいだな」
「月が?」
「こんなに眩しいと、な」
大きく輝く月に例えるなんて、ツイステッドワンダーランドではありふれた口説き文句だ。古典文学から陳腐な恋愛映画まで、使用例は枚挙に暇がない。これまではどこか斜に構えてその表現を見ていた。けれど、周囲を霞ませるほどの光と光を重ねて、ようやく腑に落ちた。
「……反射しているだけで、自力で光ってはいないよ」
ただ受け取ったものを発揮しているだけにすぎないとリドルは自嘲した。そのどこか心細げな微笑は、俺だけが観測できる翳りだった。それも悪くはないが、しかし。
「それでも、光ってることに変わりはないだろ」
あの母親の影響は確かに絶大だろう。だとしても、焼き尽くすほどの熱量を受けても折れずに立ってきたのは、紛れもないリドル自身の力だ。俺はそれを誇る高慢な笑顔の方が好きだった。
そう伝えると、リドルはにっこり笑って、ありがとう、と言った。そして、手袋を嵌めた手で俺の両頬を包む。
「キミこそ、ボクにとっては月だよ。あまりにも、大きすぎる」
「本当はあの惑星よりも小さいんだぞ?」
「でも——ずっと近くに居てくれただろう?」
結局のところ、照り返しに過ぎなくても。実際にはちっぽけでも。自分にとってどう見えるかが、どういう存在かを決めることがある。だから人は、恋人を月に例えてやまないのだろう。
二人して笑い合ったり、黙りこくったりしながら見つめているうちに、いつしか月は沈んでいた。反対側、北東を向くと、群青と薄紫のグラデーションの空を星が流れていくのがよく見える。広い範囲を、悠々と駆けていく。あっちだこっちだと二人で指を伸ばして観測した。その貴重な一瞬を手放して、リドルが俺を見た。俺の目を覗き込んだ。
「どんなに離れても——ボクが一番好きな月は。星は。ずっと、ここにあるんだね」
星は動き、過ぎ去り、二度と同じには巡らない。やがて訪れる距離に、どうなってしまうかわからない。
「ああ」
けれど俺は、強く頷いた。どうか、『そう見える』ように。『そう在れる』ように。
夜の空が終わってしまうと、俺はなんだか照れ臭くてリドルの顔を真っ直ぐに見ることができなかった。ただ、二人の明日が来る方をじっと、見つめていた。