子供たちがまだ子供だった頃、トレイの実家のケーキ屋が別の街へ移転することになった。その準備を手伝うため、一家はトレイとリドルが生まれ育った町へ帰郷した。
リドルの母と夫々の関係は結婚したばかりの頃に比べればそれほど悪くはなかったはずだった。しっかりと向き合って話し合うことができていたわけではない。孫たちが産まれ、年に数回電話をして、数年おきに帰省するなかで、言外に適切な距離感を掴めたと思っていた。けれどその適切さというのは多くの変数を含み、本来ならば何度も向き合って模索しなければならない脆いものだった。誰もそれに気づかないまま、崩壊の時は訪れた。
子どもたちをリドル側の実家に預けて、移転準備を手伝う。夫々が帰る頃には、子どもたちは夕食を終えて寝る支度を始めているはずだった。リドルは数年ぶりに取り出した鍵で扉を開けた。そうして二人は目撃してしまった。末娘がその祖母に両肩を掴まれて手酷く叱責されている姿を。更に上の子がそれに脇から食って掛かり、真ん中の子がどうすることもできずにおろおろと立ち尽くす姿を。
まずトレイが子供らをローズハート夫人から引きはがし、上の子二人を「部屋へ行っていなさい」と避難させる。そしてリドルが理由を問うた。6歳になる末娘エディスが言った言葉が礼を欠いていたのだという夫人の主張は、叱責を肩代わりするように黙って受け止めていた。しかし。
「全く、“足りない”子ばかり作って——!」
「……今、何とお言いで? お母様と言えど、許容できませんね!」
エディスだけでなく子どもたち全員の人格を攻撃するような言葉が出ると、もうリドルは黙っていられなかった。もはやエディスだけの問題ではない。トレイに末娘のケアを頼むと、真っ向から反撃した。
リビングでは、なおも論理と感情を織り混ぜた暴言の応酬が続いている。その詳細がキッチンには届かないことをトレイは祈った。ひとり食卓にかけた末娘は、いまだに呆然としたような表情でホットミルクの膜を見つめている。
身体の反射で泣きじゃくっていたのが収まってきて、ようやく本来の感情が見えてくる。悲しみや恐怖よりは、驚きの色が濃い。トレイは責める口調にならぬようつとめて、娘に問いかける。
「イーディ。どうしてあんなことを言ったんだ?」
ただ、祖母のレシピが知りたかっただけなのはわかっている。では、『そんなに美味しかったのね! おばあさま嬉しいわ!』という歓喜に対する答えが、なぜ“あの言葉”でなければならなかったのか。
エディスの答えは、依然として変わらなかった。
「? ……美味しくなかったから」
「……そうだとしても、折角作った料理をそんな風に言われると傷つくもんだ」
「どうして?」
「どうしてって——」
「美味しくなきゃいけないの?」
料理にとって最も大きな価値基準は“美味しい”かどうかだと信じて生きてきたトレイにとって、その疑問は衝撃だった。エディスにとって“美味しくない”とは、それ以上の意味を持たないらしい。困惑しているトレイの理解を補うように、エディスは辿々しく付け加えた。
「美味しくないけど、好きだよ」
エディスの頭の中には、トレイともリドルとも異なる思考が渦巻いている。“とろい”子供だと見なされがちだが、実際のところは頭の中が、頭の外の全てを置き去りにしてしまっているのかもしれない。あるいは逆で、頭の中で考えることに夢中になっているうちに、外の全ては彼女を捨て置いて去ってしまう。プリスクールの頃などは、そんな風に一人で遊んでいる所が多く見られた。少しマイペースなだけだろうとそれほど気にしてはいなかった。しかし誰にも理解を求めず、摩擦を繰り返して生きていくのか。その果てに削れるのはこの子ではないか。そう思うと親としてとても心配になる。この子がこの子であり続けるには言葉が必要だ、とトレイは思った。この子が考えていることをもっと聞きたい、とも。
トレイはエディスの言葉を、テーブルの上に魔法の光で文字を書きながら整理していく。言葉に詰まった時は、勝手に誘導してしまわないよう静かに待った。彼女一人でもこれができるように、という訓練でもあった。
「お父様のごはんもおばあ様のごはんも大好きなのに、私のせいでけんかしてる……あ、パパのごはんも大好きだよ」
「はは、ありがとうな。……イーディがそうしたくて今こうなってるわけじゃないってこと、パパはわかってるからな。でも今度こうならないために、イーディが思ってることや考えてること、誰かを傷つけずに伝えられるようにしたいだろ?」
「おばあ様とも仲直り、できる……?」
「………………できるさ、きっとな」
トレイが時間をかけて頷いた時、キッチンのドアがきい、と蝶番を軋ませながら開いた。上の子たちがおずおずと顔を覗かせた。一番上のチャーリーと、真ん中のロランだ。
「イーディ、大丈夫? ……あっ、パパ……言い忘れてたけど、おかえりなさい」
「全くあの年寄りときたら……おっと。おかえりなさい、パパ」
「お前たち、まだ起きてたのか。先に寝てるよう言っただろ?」
「まだ21時にもなってないよ。正直私はお腹が空いてしょうがない……コンビニに何か買いに行っちゃダメかな?」
「僕は止めたんだよ! ダメに決まってる!」
慎重派のロランは、勿論異議を呈する。だが、くうう、と切なくお腹が鳴った。その場にいた全員から笑みがこぼれる。
「……しょうがないな、特別だぞ。ローリィとイーディは留守番だ」
「やった! 二人は何が食べたい?」
「おねえちゃん、わたし、アイスクリームが食べたいな」
「いいよ。味は?」
「面白いのがいい」
「わかった」