「お待たせ——何読んでるんだ?」
リドルは携帯端末の画面から目をあげた。目を少し瞬いて、ピントを調節する。
「エディスがインタビューを受けたっていう記事だよ。キミが遅れるから、すっかり読み終わってしまった」
「悪い。ちょっと厄介な相手でな」
最近は細かい文字を読む時には眼鏡をかけているのだが、トレイが来るまでの間だと思い、その手間を惜しんだ。
料理系のWebメディアでライターとして働いている末娘は、普段ならインタビューをする側だ。それが今回受ける側に回っているのは、初めて出版した単著が、局所的に話題になったからだった。以前出した本は様々な著名人に食事をしながらインタビューをするもので、そちらもそれなりの評価を受けたのだが、彼女自身は「インタビュイーのおかげ」ともののうちにいれていないらしい。
今日は本来なら、最近自立して輝石の国に居を移した彼女が所用で薔薇の王国へ戻ってきて、一緒にランチに行く予定だったのだが。
「エディス、来られないって」
「そう。——残念だな……あの子、大丈夫なんだろうね。久しぶりに顔をみて、ちゃんとやれているか確認したかったのに」
「仕事以外のことはてんで適当にするからな……」
「学校のプリント一枚持って帰らなかったあの子が報・連・相に締切ありきの仕事をしているなんて、いまだに信じられないよ」
予約をしたレストランの受付で急遽一人来られなくなったことを告げると、「お聞きしております」と返ってくる。どうやらエディスの方で連絡は済ませていたらしい。
「……えっ、エディスが!?」
「いつまでも『小さなイーディ』のイメージに引きずられてちゃ、あの子に失礼かもしれないな……」
娘の成長に文字通り目を見張って戸惑いながら、二人は予約席についた。
ランチコースの前菜に乗っていたレモンを見て、ふと思い出す。
「あの子が庭に植えたレモンが、最近元気ないんだよ」
「長年アゲハに食われてたからなあ」
「それが見たくて植えたんだものね、あの子は」
庭いじりが好きだったエディスは、植物そのものだけでなく虫も愛でていた。とりわけ、虫が葉を食む様を見るのが好きで、小さい頃から庭に寝転んではにこにこと虫を眺めていた子供だった。
食事を見ているのが好き、というのは虫に限ったことではなかったらしい。
彼女自身は食べるのが遅く、食べながらぼうっとよそ見をしていることが多い子供だった。同じように食べるのが遅く、食が細かったロランは、食べきれないとき心底申し訳なさそうな顔をする。一方エディスは、じっと何かを見ている。どこも見ていないかのように。だから、食への興味関心が薄いのではないかとトレイは思っていた。理解し難いが、そういう子もいるのだろう、と。けれどローズハート側の祖母に預けたあの日、それは誤解だと思い知らされた。「食べている人のいろんな顔を見ているのが好き」だとアイスクリームを食べながら話してくれたのも、あの夜だった。興味が薄いどころか、彼女は隙あらば食のことを考えている人間だった。わかる気がするな、と何十年経っても見飽きない所作を眺めてトレイは目を細めた。コースの魚料理に舌鼓を打つリドルの表情、カトラリーを操る指先は、年齢を重ねてもいとおしい。
丁度リドルも同じ出来事を思い出していたらしい。「ボクの実家に子供たちを預けた時のこと、覚えてるかい」と一呼吸おいて切り出す表情は、あれから二十年あまり経ったというのに苦々しい。
あの一件をきっかけに、リドルとローズハート夫人の関係は、もう一度破綻した。就職や結婚など、ぶつかり合ったことは何度もある。けれど、孫の誕生などで諍いが流れて、なあなあに距離が縮まった。それは、根本的に関係が修復されていたわけではなかったのだ。子供たちを預けた夜のことは、結局流れるだけのきっかけを得られなかった。
連絡事項は手紙で、どうしても電話する必要がある時はトレイが間に入り——意外にもローズハート夫人の方もそれを承諾した——そうしてお互いの本心を真に言語化して穏便に話し合うことは、結局最後までできなかった。
家族のなかでただ一人、再び祖母と積極的な交流を持つようになったのが、当のエディスだった。『美味しくない』の事件から数年後、彼女がエレメンタリースクールの最終学年の頃。家の固定電話にかかってきた電話をたまたま取ったのがきっかけだった。トレイが「誰と話してるんだ?」と聞くまで取り次がず、二時間にも渡る長電話をしてのけた彼女は、「久しぶりにおばあさまに会いたいな」と言い出した。まったく、けろりとした顔で。
五時間に渡る説教を十数年も引きずっていたトレイやリドルにとって、それは全く理解できない発想だった。その頃進学で家を出ていたチャーリーやロランも、話を聞いて信じられないと叫んだ。結局トレイが連れて行ってやって、ほどなくしてミドルスクールに上がった彼女は一人で電車に乗って遠出できるようになり、祖母と孫、二人きりでの交流を持つようになった。
「あの子には申し訳ないことをさせた……と思う。あんな思いをしてまであの子が間に入ってくれようとしたのに……結局最後まで仲直りできなかった」
「あいつは最初からそんなつもりじゃなかったよ」
何度か車で迎えに行ったトレイは知っている。彼女はいつだって自然体だった。単に懐いていただけなのだろう。
「お前があいつと高校の進路で喧嘩した日のことも覚えてるか?」
「忘れられるわけがないよ。その時も、仲直りできなかったんだから」
『魔法士養成学校に行きたくない』と言ったエディスを、リドルが強引に説得しようとした日のことだ。チャーリーは【塔】と呼ばれる女子が行ける魔法士養成学校の最高峰に、ロランはナイトレイブンカレッジにあっさりと進学したため、それはトレイとリドルが初めて直面する進学問題だった。
エディスは、『勉強したいほどものすごく魔法が好きなわけじゃないし』と言い放った。リドルとしては、魔法素養を持ちながら魔法士養成学校に行かないなど考えられなかった。自身のオーバーブロット経験や、魔法の暴走による事故例を見聞きした故の不安もある。とにかく、魔力を使えるように生まれたからには魔法の専門教育を受けることが、彼女のためになると信じていた。なので、好むと好まざるとに関わらず届いた入学許可証の中からどれか一つを選んで行くべきだと強弁することしか、リドルにはできなかった。
トレイとリドルはいつも、意見や態度の硬軟を補い合いながら子供に向き合ってきた。他の問題なら、もう少しエディスの側に立つこともできたかもしれない。けれどリドルのオーバーブロットはリドル本人以上に、彼を失いかけたトレイにとって恐ろしいトラウマだった。だからいざという時に制御する術や、同じ目線の友人を得てほしいとどうしても思ってしまったのだった。こっちの学校は寮が新しくてきれいらしいとか、あっちの学校では調理系の実践魔法が強いらしいとか、各学校のいいところを列挙してみても、それはやんわりとした押し付けにしかならなかったらしい。とうとうエディスは一人で家を飛び出してしまった。『なにもわかんない、どこにも行きたくなんかない』と叫びながら。
慌てて友人宅や学校、よく行く公園など方々を探し回ってやっと、玄関に引っ掛けられていたはずのパスケースが無くなっていることに気が付いた。電車に乗ったとなれば探しようがない、とリドルは絶望しかけたが、トレイにはどこへ逃げ込んだかわかっていた。二人で車に飛び乗って、リドルの実家へと急いだ。
『この子の好きにさせてあげたら、いいんじゃないかしら』とローズハート夫人は言った。口を引きつらせて、絞り出すように。あなたがそれを言うか、とはトレイもリドルも思った。それは本来、何十年も昔に、リドルに対して言っているべき言葉だ。けれど、『今更』にとらわれすぎることは人間の変化を阻害する。彼女の中の凝り固まったものを無理やりに捻じ曲げて、精一杯孫娘の側に立とうとしているのだと思えば、二人とも怒りを呑み込むことができた。事実、エディスは泣き腫らしてはいたもののかなり落ち着いていて、『ごめんなさい』と謝りながら大人しく迎えの車に乗った。
問題はその後だ。
『だって【塔】から入学許可証が来なかったのなら、行っても行かなくても変わらないでしょうし……』
『それを、あの子に対しても、言ったんですか』
『言ったわ。事実でしょう』
エディスはチャーリーから聞く【塔】の話を楽しみにしていた。複数届いた入学許可証の中にその一通がなかった時、薄く微笑んで『そうだよね』と言っただけだった。素行にせよ成績にせよ、どこか緩いところが彼女にはあった。その結果が初めて明確な失敗の形になって、彼女は確かに落ち込んでいた。本当はやればできる子なんだからとずっと信じているのはトレイとリドルだけで、もしかすると彼女はずっと自分に失望していて何の期待も持てていなかったのかもしれない。その温度差が今回彼女を追い詰めてしまったというのにまさか、逃げた先でとどめを刺されているなんて!
『……』
『……あなたはやはり変わらないんですね。帰ろう、トレイ』
沸騰して噴出するような怒りでは最早ない。冷えきった心のまま、帰路に着いた。後部座席のエディスは、流れていく夜道を眺めながら、ぽつりと言った。
『本当に変わらないのかな』
『……え?』
『私も、最初はそう思ってた。でも変わらないこと、ないんじゃないかな』
一番の名門でなければ。一番行きたいと思っていたところでなければ。意味はないのだと思ってしまっていた。だから、考えることから逃げてしまった。漠然と【塔】に行きたいと思っていたときは魔法士養成学校に行く意味など考えたことはなかった。片手に溢れるほどの入学許可証を送ってきた他の学校がどんなものかも。実家を出て寮生活するとはどういうことかも。
『だって、自分がどう変わっちゃうのかわからなくて怖いから悩んでるんだもん』
リドルは、助手席から乗り出して彼女の言葉を待った。
『逆に本当に何も変わらないのなら、それはちょっと安心かもね』
エディスは薄く微笑んでいた。その口角は、少し震えている。
『でも実際には変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。それがいいことかも、悪いことかもわからない』
それは彼女が初めて吐露した不安だった。未知のフレーバーも宿題の紛失もクラスでの仲間外れも一切恐れてこなかった彼女が、知りえぬ未来に怯えている。
『ねえ、私大丈夫かな? 私、いつもお父さんたちに叱られてばかりなのに。おねえちゃんやおにいちゃんに比べたら魔法だって上手くないのに。高校生になったら、どこか知らないところの寮に入って暮さないとダメなの? 4年間も魔法を勉強しないといけないの?』
『それは……』
エディスは顔を上げた。トレイと同じマスタード色の瞳は、何も言葉にできず、家を飛び出してしまった時に比べれば凪いでいた。もう“なにもわかんない”状態ではない。少なくとも自分の不安は、言葉にすることができた。
『お前の不安はよくわかった。どうなっても……どうもならなくても、お前は大丈夫だよ。環境が変わりすぎるのが不安なら、もう少しボクたちと一緒にいられるような学校を探そう。少しくらい遠くても送っていくから』
『……いいの? お仕事だってあるのに』
『余計な心配をするものじゃないよ、甘えん坊さん』
『次は、パパたちの不安も聞いてくれないか。比較対象が多いからわからないかもしれないが、お前が思っているよりもお前の魔法は強いんだ……』
「あんなことがあっても、あいつはあの後もあの人のところに通ってただろ? 単に、よっぽどあの人が好きだったんだよ」
「理解しがたいけどね……」
何度仲直りの機会があっても切れてしまう縁があるように、何度切れそうになっても繋ぎ直しに行く縁もある。苦笑しながらも、それをトレイとリドルは身に染みてわかっていた。
「でも……そうであってくれたら、救われる」
かつて苛烈な母親だった人が、老いて怒るための体力を無くし、単なる偏屈な老人になったこと。親子よりは遠い、祖母と孫の距離感であったこと。エディスの肝が太く、多少邪険にされてもめげない子であったこと。要因は色々あるだろう。だが、二人の間にあったらしい信頼や絆を、リドルは信じていたかった。
あなたが否定したトレイとの関係がエディスをもたらしてくれたがどうか、と意地悪な質問を投げ掛けてやりたくもなる。母親であった人の晩年が孤立したものではなくて良かった、という想いもある。だがそのどちらも、もう故人には届かない。食後の紅茶は、奇しくもローズハート夫人が好んでいたものに似た香りだった。死者はただ、残滓のような思い出を遺していくだけなのだ。
会計のためにウェイターを呼ぶと、『お題は既にエディス・ローズハート・クローバー様よりいただいております』とのことだった。
「余計な気を回すようになって……」
「あいつめ、最初からこのつもりだったな」
もう、『小さなイーディ』でも『甘えん坊さん』でもないんだな、とトレイが呟いた。実家を発つ引っ越しのトラックや空港の搭乗ゲートをくぐる背中を見送った時の寂しさすべてがよみがえってきて、思わずリドルは隣を歩くトレイの手を握っていた。
「みんないなくなってしまったね」
「イーディなんかもうずっといると思ってたのにな」
高校から大学まで実家にいて、近場で就職までしたのでもう彼女は地元を離れる気はないのだとばかり思っていた。なのいにいつの間にか副業でやっていたライター業が軌道に乗ると、編集部が輝石の国にあるからとあっさり旅立ってしまった。
「“あの件”が終わったら、俺たちも長めの休みをとって旅行にでも行こうか?」
「……そうだね。子供たちがどんな国で暮らしているのか、見てみたい」
広くなってしまった家に、辛さを抱えながらずっと留まっていなくてもいい。書店に立ち寄って、ガイドブックを買った。まずはエディスが暮らしている輝石の国。表紙では美食の街一番のネズミ獣人のシェフがビジネスパートナーと肩を組んでいた。その次はロランが弁護士をやっている歓喜の港。一見きらびやかだが猥雑な街並みと、それを築いた群雄割拠の実業家たちの写真。チャーリーは……今どこで暮らしているのやら。一度叱って以来定期的にポストカードを送ってくるのだが、しょっちゅう世界中を飛び回っているのでその絵柄や消印はまちまちだ。結局、最後に絵はがきを送ってきた珊瑚の海のガイドブックを手に取った。
「そうだ、これも」
レシピ本のコーナーの片隅に置かれた本を抜き取る。非常にシンプルな魚のソテーが、これまたシンプルに中央に配置された表紙だった。著者は、“E.R.クローバー”。
「それならもうボクが待ち合わせ前に買ったよ」
「……2冊買っちゃ、ダメか?」
「……まあ、2冊あってもいいか……」
家に帰ると古びて錆びた郵便受けに丁度献本が届いていて、全く同じ3冊の本を前に夫々は笑いあった。
玄関ポーチに腰かけてページをめくる。前書きは、こんな文章で締め括られていた。
『美味しい料理は誰かが守ってくれるけど、これは私が守らなければ失われてしまうと思いました。これを美味しくすることはとても簡単だけど、主旨が変わってしまうし祖母への敬意を込めてそれを書き記すことはしません。どうぞぜひ、お読みになった皆さんで模索してみてください。この本に載っている料理は、祖母のこだわりの結果であると同時に、みなさまのこだわりを受けて変化を待つ、過程でもあるのです』