私は庭で一人、大きく伸びをした。実家の庭ではない。旧ローズハート邸の庭で。一時期世話をする人がいなくなって荒れ果てた庭は、かつてと同じように見事な薔薇で彩られている。庭を蘇らせることは、屋敷をモストログループに売却するにあたって出した条件の一つだった。もうじきこの建物は、オーベルジュへと役目を変える。モストロの若き次期後継者が惚れ込んだ屋敷のほとんどはそのままだ。けれどいくらか改装や修繕を施されると、どこか真新しいような香りがして——よく知っている場所なのに、全く知らない家のようでもあった。今日はこの取材のために薔薇の王国へ帰ってきたのだが、時間帯の変更があり、両親とのランチは断念せざるを得なかった。折角だから二人でデートでもしてくれたらいい。
祖母のことを嫌いになったことはない。家出をした時だって、私のことを慰めてくれようとしていたのはわかっているから。大好きな大人同士が仲違いしているということは、子供にとって深刻なことではあった。解決できるならいいかもしれないけれど、世の中には解決できない問題もあるということはすぐにわかった。なので二人を積極的に仲直りさせようと思ったことはあまりない。姉も兄も祖母には嫌な思い出があるようで、あの家で祖母を好きなのは私だけだった。それも当然だと思う。でも私は子供だったので、私だけのおばあ様がちょっとだけ嬉しかった。
ベンチに腰かける。今日みたいに暖かい日は、祖母とよくここに座っていた。お盆にシロップ抜きのアイスティーを乗せて。学校や庭の話をして、祖母の軽いお小言を聞くのが好きだった。お互い一言も話さず、何か読んでいる時もあった。祖母は論文を、私は学校の課題図書やインターネットメディアの記事を。風が冷たくなってくると家の中に入って、古びた学習机で宿題に唸っていると、砂糖抜きの紅茶を淹れてくれた。一緒にキッチンに立ったこともある。執拗なまでに油を旨味もろとも落とすなどのこだわりは、本当に興味深かった。ノート3冊に書き留めたレシピを本という形にすることができてよかった。
祖母が倒れているのを見つけたのもここだった。搬送されてすぐ意識を取り戻した祖母は、ブツブツと看護師の不満を言っていて、すぐに退院できそうに見えた。けれど家族で見舞いに訪ねる度に衰弱していって、あんなによく通っていた声がどんどんか細くなってしまっていた。それでも看護師を呼びつけて物申すことは最後まで辞めなかったけれど。
ある昼下がり、その日は単独で見舞いに来た私がベッドの傍で過ごしていると、祖母は声を上げた。
『——————、——————ゥ』
それはもうほとんど聞き取れないほどに弱い声、不確かな発音だったけれど、誰かの名前を呼んでいるのはわかった。
『どうしたの、おばあ様』
『……まどを……あけて』
窓はもう開いていた。午前中に呼びつけた看護師に開けさせたのだ。意識が朦朧としていたのかもしれない。寝言だったのかもしれない。私は、窓辺に行って音を立てないように窓を閉めると、それからすぐ、わざと音を立てて窓を開けた。
『開けたよ、おばあ様』
そう祖母に囁いた。けれどもう祖母が返事をすることはなかった。
「まだいたんですか? そろそろ帰りなさい」
庭の白薔薇が、いつの間にかほのかに橙の光で染められている。ハッとして振り向くと、ベンチの脇の窓を開けて父たちと同年代ほどの男性が顔を出していた。モストログループ総帥その人だった。彼はモストロの名のもとに事業を興す時、必ず一度は自ら視察に訪れる。私よりも年若い後継者に初めて任せる店ともなれば尚更だろう。
「アズールおじさま」
「折角帰国したんですから、ご両親に顔くらい見せてあげたらどうです」
「実はドタキャンしちゃったから、ちょっと気まずくて」
こんなことを言うなんて老人くさくて嫌になりますが、と前置きしてアズールおじさまは言った。
「……親はね、やっぱり子供が帰ってくると嬉しいものですよ。うちのが家出してよそで商売を始めて失敗して戻ってきた時も、それは怒りましたけど。でもやっぱり帰ってきてくれて嬉しかった」
「それ失敗させたのアズールおじさまじゃなかったですっけ。記事になってましたよね」
「親子の情と商売敵への手心は別ですから。……この場所のことは心配しないで。あの子も成長しましたし、いざとなれば僕らがついていますから」
心配だなんて、と私は取材相手への礼儀として首を横に振った。
「大切な場所を譲ってくださり、ありがとうございます」
「いいえ、放っておかれて忘れられるよりはずっといいと父も——この家で育った方の父も言っていました」
私は屋敷を仰ぎ見た。もうここに父や祖母はいないけれど。きっとここから私の知らないたくさんの変化が始まるのだろう。
「素敵なお店にしてくださいね」
「必ず。……では、お父様たちにもよろしくお伝えください」
少し離れた駅に向かって歩きながら、実家に電話をかける。電話をとったのは、料理が上手い方の父だった。
「……あ、パパ? 今日は行けなくてごめんなさい。……レストランはどうだった? おにいちゃんの恋人との顔合わせに使えそう? ……良かった。……ねえ、やっぱり今日そっちに帰ってもいいかな?」
もう二十歳も越えたのに、まだまだ私は甘えん坊の末っ子のままなのかもしれない。お願いすることへの抵抗が無さすぎる。
「久しぶりにお父さんの料理が食べたくなっちゃった。人がご飯を食べてる時のいろいろな顔を見るのが好きだから、取材と称して誰かとご飯を食べに行ける仕事をしてるけど――でもやっぱり、お父さんが作ったご飯を食べてる時のパパの顔が一番好き」
ご飯を食べながら、誰にもしたことのない話をしよう。おばあ様の最後のお願いの話を。最後に呼んだ名前の話を。私は、私のことだと思っているけれど。
電話はもう一人の父に変わった。何が食べたい? と聞かれて少し迷う。これだ、と思いつく頃にはもう駅に着いていた。
「ロールキャベツ!」