冬眠鼠のオブリビオ - 2/2

『ほら、もっと寄って寄って!』
『ケイト……恥ずかしいよ』
『こんな感じか?』
『トレイ!』
『撮るよ~!3、2、1……』
『っ……!? トレイ!!』
『うわ、トレイくんてば、大胆~!』
『ケイト! ニヤニヤおしでないよ! というかキミこれ写真じゃなくてムービーじゃないか!』

「……」
「…………」
「………………」
「……………………ケイト」
「……これは……」
「え……へへへ……」
スマホを覗き込んで絶句した二人に、荒業過ぎたかな、とケイトは少し後悔した。

トレイとリドルの記憶は、あれから数時間して無事に戻った。それから数日、ヤマネの2年生は相変わらずルチウスや朝食のジャムを見てはワッと泣き出すこともあったが、記憶は飛ばさずになんとか頑張っている。最近は放課後に寮のキッチンでジャムを作っているようだ。あえてトリガーに触れ続ける、彼なりの訓練らしかったが、ジャムが煮詰まるのをぼうっと見ていると少し心が落ち着くのだと言う。
そんな彼が作った林檎とシナモンのジャムを受け取って、そういえば報告は聞いたものの録音を聞いていないなとリドルは思いだした。「本当に聞きたいの?」「もう大丈夫そうだしいいじゃん」と渋るケイトを押し切って再生させた録音に、リドルとトレイは揃って首をかしげた。
「ボクとトレイが……恋人……?」
「……はは……そんなことあるか……?」
スマホの画像についてはぼかして説明したとは言え、嘘でしょこの期に及んで!? と驚愕したケイトは、一本の動画を再生した。記憶喪失状態の二人を、『忙しくて二人での写真を撮れてないから、たまには撮ろうよ』と丸め込んで撮影した動画である。幸せそうに、屈託無くはにかむ二人。指を絡ませて繋いだ手、額への不意討ちの口づけ。

絶句したのち、耳までかあっと赤くなって俯いたリドルとは対照的に、トレイの顔からは表情が消え、さあっと血の気が引いていた。
「………………………………殺したい…………」
「え……ええ!? そりゃデリカシー無い荒療治だったかもだけど……いや、えっと、ゴメン……ね?」
ぽつりと口から出た言葉に、ケイトは椅子から跳びすさった。頭越しにいちゃつかれる身にもなってほしいと、そんな軽い意趣返しのつもりで、こんなつもりじゃなかった。こんな顔をさせたくて撮った動画じゃなかった、とケイトは思う。
「……確かに、状況判断を誤って勘違いしたに過ぎない。どういう判断だったのかはわからないけど……トレイにとって不本意だったなら、映像に残すべきじゃなかったかもしれないね」
リドルの頬からも色が消えていく。握りしめた手は白く、平静を装う声は震えている。
「違う! 俺にとってこれは……まるで夢みたいだ。だから、この“俺”を見てると腹が立ってしょうがないんだ。何にも知らないくせに、って」
リドルのことを知らない、リドルとの過去を持たないトレイ。トレイにとってそれは、自分と同じ顔をしていても全く別の人間に思えた。自分であって自分ではない自分が、過去の痛みも後悔も知らない顔で、何の躊躇いもなくリドルに触れている。それに応えるリドルは、何の憂いもない穏やかな笑顔。トレイが、常にずっとそうあってほしいと願う表情。許しがたい存在が、希求してやまないものを手に入れている。そんな映像を見て、脳が煮えるような混乱を抱いていた。
トレイとてリドルと恋仲になりたくないわけではない。リドルからの恋慕にもうっすらとは気づいていた。にも関わらず、手をこまねいて、足踏みをして、指を咥えて今の関係に留まっていたのは、間違えてばかりの自分を許せないからだ。リドルの平穏を願えば願うほど、その恋人に自分が相応しいとは思えなかった。あの痛い過去があったからこそ、トレイはリドルを愛している、そう思っている。しかし、その痛みを見ていることしかできなかった自分が、恋人だなんて。
なんて、羨ましい。なんて、妬ましい。

「ああ、本当にいい夢だった。見せてくれてありがとう、ケイト。——なあ、リドル。このことは忘れてくれ——」
いつも通りの取り澄ました笑みを作ろうとしたが、ずっと寂しい微笑みになってしまった。トレイが目線を上げると、リドルはもう俯いてはいなかった。凛としたスレートグレーの瞳で、真っ直ぐにトレイを見据えている。
「冗談じゃない。勝手に夢なんかにするんじゃないよ」
隣り合ってソファに腰かけてはいるが、拳二つほどの距離がある。動画の中の二人のような接触はない。けれどトレイは、捕まった、と思った。
「キミはボクと恋人だったのが嫌だったのかい?」
「だから違うって!」
「ボクのこと本当は好きじゃない?」
「死ぬほど好きだよ!」
「だったら、“キミ”が“ボク”にキスをしたという現実から逃げるんじゃない!」
リドルは、ぐっとトレイに詰め寄る。
「キミは他人のように言うけれど、確かに記憶は欠けているけれど、あれは確かに“キミ”と“ボク”だ。お互いに好き合っていて、交際したいと思っている。それだけじゃ済まない理由がキミにはあるとしても、勝手に一人で逃げないでくれ」
そうだそうだビビってんじゃねえ、と野次を飛ばすか、さもなければ今すぐこの部屋から出ていきたい。二人の傍らに佇むケイトはそう思った。確かに、別世界の二人のようだと思いこそすれ、全くの別人だとは思わなかった。少なくともケイトから見てそうだと補強するのは野暮というものだ。あと少しで届くかもしれない。頑張れ、とリドルをひっそりと応援するつもりで、ケイトは音を立てないよう壁際へ退いた。不用意に他人の柔らかい部分を暴いてしまった罰として、見届けなければならない。というか今ドアの開閉音がしたら気まずい。
「ボクはキミとこれになりたい。恋仲になったからって、世界が滅ぶわけでもなし。なら、そうなってから、ゆっくりキミの不安を解決してもいいんじゃないか」
「俺にとっては、世界が滅ぶよりもお前が不幸せになる方がよっぽど怖いんだよ」
「キミが隣にいる限り、それはあり得ないね。……さあ、ボクの幸せを願って、一緒に幸せになってくれるなら、“もう一度”キスしてよ」
「…………っ!」
トレイは大きく目を見開いた。狼狽に視線をさ迷わせて、ハニーマスタードの瞳を震わせる。ハーフグローブから伸びる指をおずおずとリドルの頬に添えて、臆病なくらいにゆっくりと、その唇にキスをした。
「っ、ん、キミね、“もう一度”って言ったじゃないか、額だよ額! ケイトの前で!」
「すまん、我慢できなかった」
「見てない! 見てないから! オレもう行っていいかなぁ!?」
片手で目を覆い、反対側の手で壁を手繰って、ケイトはやっとドアノブを掴んだ。返事を待たずに飛び出して、廊下を脱兎のごとく走る。あとはお二人だけでどうぞ! さっさとくっつけとは思っていたが、眼前でここまでのことをされるとやはり相当気まずい。
「あの子、もうユニーク魔法使いこなせるようになってるかなあ……」
とりあえず、今の一連の記憶を消したい。それが無理だとしても、スプーン一杯のカラシを直で舐めたいような気分だ。ケイトはキッチンへと脚を早めた。