其は優しき深淵の底/11月1日、日常にて - 2/2

11月1日、日常にて

 

魔法石の発掘が魔法史における魔法元年だというのなら、魔法経済学の元年とは、魔法を使用した労働に賃金が発生した時だ。

「一般的に、魔法士と非魔法士が、同一の時間で同一の成果を出したなら、その過程に関わらず、賃金は同一であるべき、というのが、“成果本位原則”よ。ほとんどの国は、これを前提として最低賃金を制定しているわけだけど——ある時、ブロットなど、雇用主が労働者に消費させたリソースを元に賃金を定めるべき、と提唱した魔法士の経済学者がいたのね。でもこれはあまり採用されていないわ。どうしてかしらねぇ——リーチJ!」

わたしは途中で生徒の一人を指した。今日は指すタイプの授業なんだ、と周囲の生徒たちが慌てて目を覚ます。

「…………非魔法士側のリソースを、ブロットと同じようには算出できないからではないでしょうか? 疲労ですとか……」
「正解よ。まあ部分的に取り入れられていることはあるけどね」

余談として、成果本意原則やリソース本位原則以前には、“魔法士は魔法を使っている分楽をしているのだからその分賃金は安くていい”という考え方もあったが、これはブロットの研究が始まるより前の愚案である。授業で取り上げるほどの価値もない。
寝ている生徒を直接指して大勢の前で嗜めるようなことは、授業のペースが崩れるのでしない。授業はわたしのステージなのだ。なので基本的にはなるべく答えられそうな、目覚めている優等生を指すのだが——今日のリーチJには一拍の遅れがあった。寝てはいない。寝てはいないが、とても珍しいことだった。

今日は11月1日、ハロウィーンウィークも終わって日常に戻る日。まだ余韻を残して切り替えられないでいるのは例年のことだが、今年はそれどころではなかった。出勤してまず、今日を臨時休校にすべきか、という職員会議があった。終わらないハロウィーンにとらわれて眠れていない生徒たちに、一日の休息を与えるべきか、と。いつも通りの時間に帰って眠っていつも通りに出勤してきたわたしにはとても信じられないことだ。
結局、発端は生徒の側にあり、そして生徒たちは終わらないハロウィーンを“楽しんだ”という証言を理由に、休校にはならなかった。臨時職員会議の分一時限目だけが潰れて、生徒たちはその間束の間の休息を取ったはずだが、2時限目の今・魔法経済学の授業でまた8割が夢うつつ。

「じゃあ魔法士も非魔法士も最低賃金は同じになっているかしら? というと、そうじゃあないわよね。どちらの方が高いか、というとそこは国にもよるけれど、労働者の公平性とはまた違う、各国共通の問題意識が働いていて、そこには“差”が生じているわ。その問題ってなーぁに——ローズハート!」
「…………魔法士の失業率の抑制、ですか」

ローズハートも、寝てはいない。しかしその目はどこか遠くを見ているようだった。眠気を必死に抑え込んでいるような。いつも張りつめたようにきりっとした顔をしているのに。リーチJといい、彼らがこんな腑抜けた顔をするなんて、昨夜生徒たちに起こったことが尋常ではないと、いよいよ認めざるを得ない。

「……そうね、経済界の問題というよりは、治安の問題よ。失業率が高くなれば治安が悪化するのは当たり前だけど、魔法士の——オーバーブロットは被害規模が大きすぎる。防災の問題と言ってもいいかもねぇ。それが意識され始めたきっかけは……どうせ魔法近代史でやるだろうから今日は割愛するわね」

わたしは授業を続行する。これは、今教室でうつらうつらしている彼ら全員の話だ。魔法学校が力の強い魔法士の卵をスカウトするのだって、魔法士の失業率対策には違いない。彼らが今ここにいるのには、彼らのため以上の意味がある。無為にされるのは癪だが、精々聞き逃すがいい、という意地悪が首をもたげる。
その後も何人かを指して、時折わざと落ちているヤツを指してみたりして、11月1日2コマ目の魔法経済学は終わった。
ひっそりとさりげなくレポートの課題を出すのも忘れない。テーマは、『自国以外の任意の国の魔法士失業率とその対策』または『自国以外の任意の国の魔法士・非魔法士の最低賃金の推移とその理由』だ。魔法士と非魔法士を分けて統計を取ろうとすることには落とし穴があるが、その話は来週までおあずけだ。それを踏まえてレポートを書く生徒が一人でもいるだろうか。

昼休み、購買で買った煙草を吹かす。鼻が利くからこそ、わたしは薫りの嗜好品に拘る。鼻が利かない人間も多く共存するところでは、無頓着な匂いがノイジーだから、好きな匂いで覆ってしまうのだった。というのは誇張で、実際のところは単なるヘビースモーカーである。ヒト属に育てられたから、無頓着な匂いには慣れている。
そういえば、ミステリーショップはまだつぎはぎの布で覆われたままだった。例年ならきれいさっぱりなくなっているはずのハロウィーンの飾り付けは、明日までの猶予を与えられている。ハロウィーンでも無い日に残っているのが、少しだけ新鮮だった。

ハロウィーンは此岸と彼岸が混ざり合う日だという。その余韻を残す今日のナイトレイブンカレッジは、まだ日常と非日常が混ざり合っているように見えた。けれど、異なる性質のもの同士は、本来いつだってどこかで混ざり合っていて、たまたまそれを強く意識する時があるだけなのかもしれない、とわたしはふと思った。
普段は意識もしない、知らないことすら知らないものが、ふと目について手を伸ばしたくなったりする。思ったよりもこちら側と離れてはいないことが、突然わかったりする。例えば、先程の授業で話した魔法士と非魔法士の経済が本当はハッキリと分けられるわけではないように。魔力を持ちながらも様々な理由——魔法士養成学校退学や、労働条件など本当に様々だ——で非魔法士として働いている人がいるように。魔法士職に就きながら、実際にはほとんど魔法を使わない人がいるように。確かに、手を伸ばしても届かない領域はある。魔法が使えない人間が魔法士にはなれないように。けれど、それは重なりあう部分を否定しはしない。
わたしも一応魔法士職ではあるけれど、完全に座学の講師だから、魔法を使うのは通勤時に靴に飛行魔法をかけてあの馬鹿みたいな坂を登るくらいだ。そういえばマジカメモンスターの対応で、脅しとして一瞬魔法を使ったっけ。あの坂を越えてまで迷惑行為をしていたのだと思うと、呆れてしまう。

つらつらと考えていると、中庭に生徒が二人、待ち合わせて来た。トレイ・クローバーとリドル・ローズハートだった。わたしは物陰に身を潜めたまま、タバコを揉み消す。中庭は本来禁煙なので、あの真面目な子に見られたらきっとうるさいことになる。
ベンチに腰かけたあと、しばらく何事かを話し合う。たまに手帳に目をやっているから、何かの日程だろうか。ローズハートはまだ眠そうで、ふぁ、と時々あくびを洩らす。クローバーが何事かを気遣って、そのまま少し眠ることにしたようだった。大方、昼休みが終わる前に起こしてやるから、とか、そんなことだろうか。
俯いて目を閉じたローズハートの頭を、クローバーがそっと肩にもたれさせる。クローバー自身は手持無沙汰のはずだが、そのままずっと、飽きもせずローズハートの寝顔を見つめていた。
これは彼らにとっての日常か、非日常か? わたしは深く考えないようにした。あのローズハートがこうも無防備な姿を晒すなんて、彼らだけのハロウィーン後夜祭はよほど楽しかったのだろう。それこそ、わたしたち大人にはけして手の届かないものだった。